日記×エッセイ...みち

 

 

洞窟物語プレイいたしました その4 - 2005年05月08日(日)

またまた続きです。
おもしろいゲームをすると、いろんなことを思います。それもまた楽しい。
このゲームをプレイして、自分の考え方に変化が出たり、今までの自分を整理したりすることに繋がりました。
まだ全てを終えていない(真のエンディングはまだ)ので、これからも何か思うのかもしれない、と思ってわくわくしています。
(見たいと思っているエンディングを終えても、また再度プレイしそうな勢いではありますが…)


ゲームの中で、銃鍛冶屋さんが出てきます。わたしはこの鍛冶屋さんのセリフを読んで、なんともいえない気持ちになりました。
この鍛冶屋さんが言ったセリフは、使い手からの目線を受け止めているセリフで、わたしが遊び手として思っていたことと重なっていました。
それなのですが、同じことを思っている!うれしい!、とは思わなかったんです。

セリフを読んだ後で思いました。わたしは今まで言っていたことは、「遊び手としての自分の言葉」ではないんじゃないかと。わたしは、作り手の人に言って欲しいと思っている言葉を、自分の口で言っていただけなんじゃないかと。
わたしはどこか、そういうことは言ってくれないと思っていました。だから、鍛冶屋さんのセリフを聞いて、しみじみと感動していました。感謝しました。わたしも主人公と同じく、このゲームを「使い込みたい」と思いました。
(といっても、思う前にそうなっていますけど…)


テキストを読ませるゲームってありますよね。
わたしは今まで「ゲームでは文章を読ませるだけじゃダメだ!」と思っていました。今も基本的にはそうです。
でも洞窟物語では、文章を読ませるから出てくる魅力を見ました。

想像はどんどん膨らむ。自分の好きなように最大限に想像する。でもわたしはある場面、想像したくなかった。自分が想像してしまうことをやめたかった。それでもわたしの意志とは反して想像しようとするから、わたしは想像の上で、はっきりとは見えないように幕を張った。それでもわたしの脳はどんどん想像しようとした。暴走した。
その自分の状態が、ゲームのストーリーとも重なり、とても切なくさせたんです。


「エリート」としてその負わされるもの(責任など)の代価としての報酬。
おこなったことの評価としての報酬。
わたしにとって、報酬は評価としての意味の方が強い。だから「負わしているもの」のことを忘れがちになることがあるけれど、どうなのかな。
評価したいという気持ちを大事にしたら、自分のしたいことが何かわかったような気がする。でもどうなのかな。


話をちょっと変えますが。
ニンテンドーDSで「大合奏バンドブラザーズ(バンブラ)」というソフトがあります。
音ゲーというより楽器の演奏っぽくておもしろくて、それでしばらく遊んでいたのですが、ある程度プレイしたので最近は飽きてきていました。いつものことですが飽きっぽい。
でも、洞窟物語をプレイして、また遊びたくなっちゃいました。
バンブラには楽譜を入力して、自分が遊びたい・演奏したい曲を追加できる機能があるんですけど、その機能を使って、洞窟物語のBGMをそれに入力したい!と気持ちがすっごい高まって、楽譜(音楽データ)を参照中です。
洞窟物語を遊びたいからNDSを使うという少々おかしな状況ですが。
さあてどの曲を入力しようかなー♪


ちなみに。
洞窟物語、おもしろかったので、職場の同僚に勧めてみたがPCを持っていなかった。カナシイ。
「昔のゲームっぽいグラフィックと音なのよ」と何気に言ったら、「昔のゲームって今やると、昔みたいにおもしろがれなかったりしますよね」と言われた。
言葉を誤ったらしい。昔っぽいけど、今っぽいんだよなあ。あるレビューで「温故知新」と評してあったけど、すっごい納得しました。

夜勤時、職場のPCでちょっとやろうかな、とデータを持ち運んだのですが、キーボードでの操作ってこんなに難しいの? ああ、ここは簡単にできるはずなのに。
ゲームパッドって偉大だ。


...




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