日記×エッセイ...みち

 

 

洞窟物語プレイいたしました その3 - 2005年05月07日(土)

また続きですが・・・。

まず先日の日記で訂正したいところが出てきました。
隠しダンジョンに入るつもりがなくて閉じ込められてしまったわけだったのですが、そこから戻る方法というものもきちんと隠されていました。(素晴らしい・・・)
すみずみ調べれば良かったなあ。
そしてやはり、隠しダンジョンを通過しないと真のエンディングは迎えられませんでした。ということで、わたしは普通のエンディングを2回見ました。(もちろんバッド?エンディングも見ました)

そしてやはり。
「こんなのどうしろと!?」「わたしにはこれはもうムリだから!」
隠しダンジョンをひとめ見た時に思ったこの状態も、現在では懐かしい思い出に・・・。慣れってすごい・・・。
わたし、これだけひとつのゲームに対して「ムリ」と思ったことがありません。今までは、「ムリ」=「もうやらない」だったから、そんなに何度も「ムリ」と思わずにいたんですね。
このゲームにて、自分が無理と思うことへ対する意識が変わりましたよ。ありがとう。

武器のレベルを上げたり、アイテムを見つけて自分の体力(HP)を増やしたりできるわけですが、ダメージを受ければ武器のレベルも下がるし、上がるといった武器のレベルも3段階までしか上がらない。道具や自分の体力などの限界があるわけで、ただゲーム上での「データとしての経験値」を上げていれば通過できる、ということにはならない。ゲーム画面の中の主人公の経験値ではなくて、プレイヤーの経験値を上げることで通過することになるわけです。
わたしは、できる人のやり方を見よう見真似でしようとしても上手くいかなかったり、できる人にコツを聞いても無理だったり、そうこうしているうちに「できなくたっていいや」と興味をなくしてしまうことが多い。でもこのゲームでは、「絶対ムリ!」と思うにもかかわらず、繰り返す内に「こうすればいいんじゃない?」と見えてきたり、「できるようになってきた・・・」と実感できることがちらちらと出て来たりして、「もしかしてわたしでもできるのでは!」と期待し始めることを繰り返した。実際、「絶対ムリ!」と思った当時のわたしには到底信じられないんだけれど、でもできるようになっちゃうから、興味が持続してきたのかな。

なんというか、「データとしての経験値」って、年齢を重ねる毎に給料が上がる、みたいな感じっぽい? 年齢=経験値みたいな感じ?
年を重ねるだけであっても経験値は増えているような気はします。でも、経験値ってそれだけじゃあないよね。
自分が「できない」ことを、ある人は努力も無しに普通に「できる」という場合があって(逆もあるけど)、その差を考えるとなんだかわくわくしてきます。ただ過ごしていたのでは相手が落ちぶれない限り、差は存在するまま。それを変えられるのが自分から出てくる気持ちから、だったりしたら気分いいなあ、っていう簡単な考え。

そういえばこのゲームをしている時、身近にアクションものが得意な人は誰かいないかな、と思い浮かべたりしませんでした。数日前の日記でぽろっと言ってはいますが、実際に誰かにやってもらおうとは思いませんでした。いつもなら、続きが知りたくてでもアクションができない、と思った場合、わたしは誰かにやってもらいたくなるから、ぼんやり思い浮かべたりし始めます。
結局はそうならなかったこと、とても幸運に思います。振り返ればちょっと危なかったような気もしますが、よかった。
現在、わたしは最後の最後。隠しダンジョンの最後のボスと戦っています。まだ勝てないのですが・・・。
(何度も壁にぶち当たったため自信がついたらしく、勝てる気はしています)
わたし、このゲームでいちばん救いたいと思ったのはこのボスかもしれません。だから、自分の手で進んできていることがうれしく思っています。「わたしが」止めたい。合わす顔がなくなるのかもしれないと思うなかで。


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