知らんけど

2003年03月12日(水) 感覚遊び

自閉症児への訓練のための教材研究をしています。研究とは名ばかりで、実際は、先日見学させもらった施設で使用されていた教材を見よう見真似で作ってみるという試みです。日常生活に使用される様々なモノを色画用紙で作っていきます。それぞれ、大きなものと小さなものを作ります。例えば、黄色の大きなカメラと黄色の小さなカメラというように。

このようないくつかの種類のモノを呈示することで、色、種類、大きさで分類することができます。こうしたものの分類を通して、モノの様々な概念をことばでやりとりする訓練を行うのです。視覚を用いて、「黄色の大きなカメラ」と「緑色の小さなクツ」を区別し分類するのは、彼らとっては簡単なことです。しかし、同じものをことばで聴いて区別し分類することがなかなかできないのです。(症状にかなりのばらつきはありますが。)

私たち健常者は、当たり前のようにものを見てそれが何かがわかります。しかし、その裏には、まず見たものの形を理解するために、色の違い、明暗の違いなどを見て輪郭を認知します。輪郭から更に情報を加えて立体性を認知し、モノの形を判別していきます。そして、その形をこれまでの記憶と照らし合わせて、それがカメラだとわかります。カメラだとわかることと、カメラを「カメラ」ということばと結びつけることはまた違う脳のプロセスなのです。更に細かくいくと、発話の際のことばと、聴く際のことばは脳の違う場所で処理されるのです。

このような人間の能力は、本を通して学んだわけでもないし、母親の真似をすることだけで学んだわけではありません。様々な「感覚」を通して、様々な刺激を得る事で磨かれてきた能力です。体、そして、脳が感覚として学んできたものだとも言えます。この頃、そうした感覚的なものを失いかけているのではないか?と思うようになりました。

教材作成の過程で、ハサミで画用紙を切る感覚や、マジックで画用紙上に様々な模様を書く感覚など、子供の頃に楽しく感じていた感覚を久しぶりに体験しました。パソコンの画面を眺め、テレビで情報を得て、本の活字を追うという最近の受身の活動とは違う何かものを取り戻したような気がします。実際、こうした工作をした後は頭がすっきりするのです。確かに知識を得ることは必要なのですが、同時に体の感覚をフルに使った体験も人間の感性を育てるためには必要不可欠なのです。

たまにはこどもの頃を思い出して粘土遊びでもしてみませんか?新しい何かを発見できるかもしれません。


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