知らんけど

2002年09月13日(金) 気持ち

私達が生きていると思うのは、何を根拠にそう思うのでしょう?目で様々なものを見ることができます。耳で様々な音を聞くことができます。鼻で様々なものを匂うことができます。口で様々なものを味わう事ができます。肌で様々なものを感じる事ができます。頭で様々な思いをめぐらせたり、過去の記憶を呼び出したりできます。このように五感で感じた事を脳の記憶に貯蔵しておき、その記憶を呼び出してきてうまくやりこなします。新しい経験をする時も、過去の記憶をベースに推測を立てるのです。

情報の処理という科学的な側面で見ると、人間が生きるというのはインプットとアウトプットで説明ができます。しかし、私達の頭の中には情報の処理の一部に、その情報処理に対する気持ちが介入してくる部分があります。「画鋲があった」→「画鋲が刺さった」→「痛かった」→「痛いのは今後避けたいと思った」→「また、画鋲があった」→「痛いのは嫌なので避けた」この中には、私達の意思で処理を変えられる部分があります。

「画鋲があった」「画鋲が刺さった」「痛かった」までは、私達の意思ではどうしようもできない情報です。しかし、「痛いのは今後避けたいと思った」と、「痛いのは嫌なので避けた」は、情報ではなく私達の意思です。私達は頭の中でインプットされた情報に対して、気持ちというものを作り出しています。

このような気持ちが現れるのも、単なる情報のインプットやアウトプットで説明できるのではないかと思う人もおられるでしょう。しかし、気持ちは決して「画鋲があった」という視覚的な経験とは比較ができないのは明らかです。なぜなら、「画鋲があった」のは物理的な事実ですが、その画鋲に刺さった人間がその痛みにどのような気持ちを抱くかは確実な事実として成り立たないからです。

私達がここに居ると感じられるのは体がここにある、何か体とは違うものを感じるといった感覚という情報があるからですが、そこに、その情報に対する気持ちが湧き上がることにより、さらに一層「一人間」としての生きている感覚を得る事ができると思うのです。だから、他人の体験をまったく同じように体験する事は無理で、同じ富士山を見ても、心の中に沸き上がる気持ちは100人居れば100通りあるのです。

私達がより良く生きるには、この情報体験に対する気持ちが大きな役割を果たすのではないでしょうか?太陽が昇るのを見て、あなたはどう思いますか?「すばらしい光景だ。」と感激しますか?それとも、「朝早くからなんで太陽なんだ。」と面倒臭がりますか?よりよく生きるということは、日々の生活の中での経験・体験に対して、よりよい気持ちを持つ事から始まると考えるのです。

楽しむ、愛する、夢中になる、感動する、真剣になる、共感する... 言葉では言い表せるほど、人間の気持ちは単純ではありません。単に入ってくる情報をどのような気持ちで処理するかが、私達の生き方を方向付けると言っても過言ではないのではないでしょうか?


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