知らんけど

2002年08月28日(水) 音と自然

朝、急いで家を出ると外は雨でした。マンションなので、傘を取りに帰るのも面倒くさいし、時間も無駄なのでそのまま駅へ向かいました。昔の木造作りの家に住んでいたなら、こんなことにはならないのだろうなあと思いながら駅へ向かいました。マンションに住んでいると外の音がまるで聞こえないので、雨が降っているのかどうか分からないのです。テレビで確認する、ベランダに出て確認するという方法もあるにはありますが、朝はテレビ見ませんし、ベランダに出ることもありません。

古い家は今のような、静かでエアコンがついていたりオートロックがついていたりという快適さはなかったですが、自然とのつながりは今でもありました。トカゲが家に上がって来たり、アリンコが部屋を行進していたり、隙間風があったり。音もその一つでした。雨の音、風の音、お隣近所の音。自然や生活の音が溢れていたような、そんな気がします。私は昭和47年生まれで、都会で育ったことのほうが多く、早いうちからコンクリートの家に住んでいました。引越しで木造の家には2回ほど住んだことがあります。そのときのわずかな記憶です。

オーストラリアの暮らしには、自然が入りこんでいました。日本と比べることはできませんが、やはり自然の中で暮らすということは、自分のあり方を自然のままにしてくれます。帰国直後、私がびっくりしたことの一つに、日本人が眉間にしわを寄せて、ぶっきらぼうに早足でうつむき加減に歩く姿でした。向こうで慣れていた、道端で見知らぬ人と交わす軽やかな挨拶なんてものは日本には無かったですし、目が合ったときにニコッと笑う心の余裕が日本にはありませんでした。

日本にもたくさん良いところはあります。私は日本人ですから、やはり日本でなければと思うことはたくさんあります。しかし、この『心の余裕』という側面では日本はかなり発展途上ですね。私も、すっかり今では日本人です。日本人の道徳心の低下には、公共心の無さがあるのでしょうが、私はもっと違うレベルで日本人の心は変化していると思います。幼稚な言い方で申し訳無いのですが、「愛国心の欠如」ですね。ここでの愛国心は決して右翼とか国粋主義の意味ではありません。

私の言う「愛国心」というのは、細かく砕いていけば「愛居住区心」ということですね。これは都会だけで言えることなのかもしれません。とにかく、コンクリートやアスファルトなどで覆われたこの町は、どこか排他的な雰囲気を持っています。見られる自然のほとんどは、人工的に植えられた街路樹とか公園です。ここを通れと言われている歩くための歩道を歩き、まるで自分が偉いみたいに走ってくる自動車に気を使う。電車に乗る時だって、分刻みの電車のスケジュールに追われます。それはとりもなおさず、多くの人が時間に追われ縛られる生活を送っていると言うことになります。

外国と比較して日本が、この点で劣っているとか優れているとか、良し悪しの問題ではなく、人間性という観点で、みんなが、自身でこの状態に満足しているのでしょうか?恐らく満足していないのでしょう。しかし、それに対して何もできないというあきらめ感があるようです。または、この状態が安心感を生んでいるのかもしれません。

自然との接点が無くなったというきっかけから、今のような時間に追われるストレス社会に変化していったというのは、理論的には飛躍のし過ぎかもしれません。しかし、雨の音に気付かず外に出て、面倒くさいなと思ってそのまま駅へ向かってしまう私自身の行動は、なにか自然との接点を失った現代人の心の寂しさを物語っているような気がしたのです。


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