Diary?
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国立能楽堂へ茂山家の春狂言を観に行く。今回は公演毎にテーマがあって、テーマに沿った演目を集めて上演している。私が観たのは「茶と狂言」というテーマで、演目は「通円」「清水」「茶壺」。
「通円」 能の「頼政」の台詞を逐一パロディしたもの。らしい。鼓や笛、地謡が入り、語りも能のスタイルなので、つまり私には内容はほとんど理解不能でありました。頼政のお話を茶屋坊主の話に置き換えているので「そんな大層な!」っていう部分では笑ってしまったけれども。能を知っていればもっと楽しめたかもしれないと、自分の教養の無さにちょっと悔しい思い。今回、三本とも観た事のない演目で予備知識はなかったのだが、このような「舞狂言」を初めて観られてラッキーだった。お笑い色の強い茂山家(失礼)の、真っ当な底力を見たような。
「清水」 これは今まで私が観てイメージしていた「茂山家らしい」演目。厳しい主人にお馬鹿な太郎冠者、繰り返しの笑い。ボケとツッコミが漫才のような分かりやすさ。素直に笑える。
「茶壺」 これも割とわかりやすい展開だが、途中から舞が入る。「あいまいにしろ」という言葉、「曖昧」だからうやむやにするのかと思っていたら二人で舞い始めたので、ああ「相舞」だったかと。論ずる物は中から取るなんて言いながら、仲裁役はわからない振りをして茶壺をかっぱらって行ったのではないのかな。どちらが偽者か、あの舞見たらわかるって。
今回はお茶会仲間の方をお誘いした。煎茶道を嗜まれる方で、「通円」を観て「歩き方や所作がお茶の作法に通じていておもしろい」とおっしゃっていた。私はそのような見方をしたことがなかったので、その感想自体がおもしろいなあと思った。知識や教養ってそういうことなのね。なくてもいいけれど、あれば見方の幅が広がる楽しいツール。私がこれから身につけたいのは、能と歌舞伎についての教養かな。とにかく観に行ってみよう。
何度も観ていればなんとなくわかるようになるというのは狂言で確認済みだ。誰に教わったわけでもないけれど、「なかなか」はYESの意味であり、「たのうだおかた」は主人を指すからたぶん「頼うだお方」なのだろうと、そういう理解の仕方をしていくと身にしみついて忘れない。教わったり本で読んだりしたことは、最近気持ち良いくらいさっぱり忘れてしまうのだ。
さて、国立能楽堂を出て代々木に向かう曲がり角のところに、中国茶の茶藝館ができていた。入ってみると、茶藝館と中国茶カフェの間くらいの印象の店。シノワズリな雰囲気を出そうとしているのはわかるのだが、如何せん窓外の景色は高速道路の麓。立地が気の毒だ。本日限定おすすめ(この言葉に弱い)のビーフンが美味しかった。六宝痩身茶なる漢方茶は、思ったより癖がないが後味があまーい。
後味があま−いものだから、苦い飲み物を飲まなければ収拾がつかないような気分になってしまい、新宿にさまよい出てたどり着いた先は老辺餃子館。同行の人は1年振りだそうだが、私は10年振りくらいだった。銅鑼の音とともに運ばれてくる、今まで恥ずかしくて頼めなかった「皇帝鍋」を頼んでみる。
写真ではわかりづらいが、まず炎は周りに大きくはみ出して燃えさかっている。蓋を開けるとぐらんぐらんに煮えたぎっている。摂氏100度の世界が今そこに。具で目についたのはキュウリとマッシュルーム(たぶん水煮缶)。味は、普通。ちょっと薄味の餃子スープという趣。刀削麺の焼きそばなるものが気になったのでこれも頼んでみる。これはびっくしりた。あんかけのかた焼きそばだった。でも刀削麺。そしてここにもマッシュルームの水煮缶が。
そんなサプライズな食卓にもうひとつ華を添えたのが非常ベルであった。雑居ビル火災の記憶も新しい昨今、客は皆ぎょっとして店員に「大丈夫なの?」「何で鳴ってるの?」と尋ねるのだが、店員は平然と料理を運び、大丈夫大丈夫と言う。しかし鳴り止まない。そんな中でも時々銅鑼が打ち鳴らされ、やかましいことこの上ない。店員は「耳がおかしくなっちゃうよ」とぶつぶつ文句をたれている。だったらなんとかして止めてちょうだい。それでも30分も経つとみんな大分慣れてきた。ふっと鳴り止んだその時、耳はじーんとライブ後のようなことになっていたが。何だったんだ一体、と首を傾げながら店を出て、エレベーターで地上に降りるとそこには消防車と消防士が集結してビルを見上げていたのであった。流石は老辺餃子館。相変わらずディープだ。
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