弟とは大人になってから一度会ったきり。 2年前に会ったっきり、会っていない。
まだまだ話したいことがいっぱいあった。
なんで1万円札持ってきちゃったの?とか、 なんで突然電車に乗ってきたの?とか、 本当はさみしかった?とか、 小さくて細くて、あんなに泣き虫でうじうじしていた弟が、 今では体格もよくなって、頼りがいのある一人前の男になれたというのに、 これからいっぱいいっぱい思い出が作れたというのに。
新居に引越したら遊びに来てよって言われてて、 こんな形で遊びに行くなんて思わなかった。 あんたはただ横に寝てるだけじゃないか。 何も話さない。何も言わない。
私はずっとわけがわからなかった。
母は再婚し、私には帰る実家もない。
弟の存在は、たった一人の将来思い出話ができる相手だった。
引越引越で当時の友達も近くにはいない。
「いい男は早く逝くんだ。」 「あんなに優しくていい子だったのに。」
みんなが口々に言う。
母が私と弟を面倒見ている時に、父はよく酔っては家に来て、 中に入れろ、と窓硝子を拳でたたいた。 針金入りの窓にはこれでもかとヒビが入った。
弟は 「僕がお父さんのところに行ったら、お母さんはたたかれなくて済むでしょ。 僕お父さんのところに行くよ。」 と言ったそうだ。
私は 母の上着の裾を掴み、母の影に隠れ、 「私は絶対に行かない。」 と言ったそうだ。
弟はいつから変わったの?
お通夜の時間より早く着くと、ご家族の方はこちらへと案内され、 弟が綺麗にされていた。
親戚たちが私に一番前の席に座るよう手招きし、 最前列の左端の席に座った。
お嫁さんが子どもに「パパかっこいいね。」と何度か話していた。 私は涙ばかり出てきた。
大学時代の弟の写真は、いつも中央にいて、思いっきり笑っていた。 仕事での弟も、出世街道まっしぐらのようだった。 そんな弟を父も誇りに思っていたし。
俺がお母さんを面倒みるからって言ったんじゃないかい? どうして自分が先に死ぬねん。 おばあちゃんが危ないからって会いに行ったんじゃないんかい? もうおばあちゃんとは会えないかもしれないからって。 あんたが死んでどうすんねん!
父と母は私が小2の終わりに離婚して、一度、私と弟は長崎の田舎に預けられた。 小3から中学に上がるまで、母が私と弟を育てた。
父は再婚し、弟は父の元へ行った。 再婚した相手(新しいお母さんとなる人)が子どもを生まないという条件で、弟は父の元にいった。 そのため、妊娠してもおろしたようだった。 育てのお母さんは、弟をとてもかわいがってくれたようだった。 お通夜でもお葬式でもずっと泣きっぱなしだった。 母に対してずっと謝っていた。 私に対しても謝っていた。
弟がいなければ、自分の子を産んだだろうに、 自分の子を産んでいれば、これほどの悲しみはなかったかもしれないのに、 たった一人の血のつながらない子に、いっぱいの愛情を注いできて、 自分より先にそれも33才で亡くなってしまうなんて。
私も彼女の実家へは遊びに行かせてもらったことがあったし、 弟家族の家で食事をしたこともあった。 当時の父は、私もそばに置いておきたかったようだが、 母は反対して、私も拒んだ。
弟は優しい。 いや、優しいのか単にバカなのか、その辺は今も不明なままで、 新しいお母さんにもすぐなつき、優しくして接していたようだった。
父が持ってきた弟の写真には、私と同じショットでローラースルーゴーゴー に乗っている弟の姿があった。これ、全く同じ日に撮ったんだ。
家に帰ってきてもう一度確かめる。 夫が「あの写真は黄色だったよ。」
私のは水色だった。 「俺の記憶力が正しければ。」 翌日にもう一度確かめる。 本当だ、黄色だ。 どうして黄色だったんだろう。 二台もローラースルーゴーゴーを持っていたのか?
私は自分が持っている弟の写真を次の日に持っていこうとしていた。 夫は、 「それはお前の宝物なんだから、人前に持っていくのはやめなさい。 お前が持っていればいいものなんだよ。 持っていって傷ついたり、無くしたりしたら嫌だろう。 そうなってからじゃ遅いんだからね。」 と言った。
最初は理解できなかった。 だまって考えた。 うん、持っていくのはよそう。 奥さんにには遊びに来てもらった時に見せよう。
お通夜の夜だから、泊まる覚悟で用意はしていたが、 「ずっといると疲れるから、寝るだけでも家に帰った方がいい」 と夫から言われ、状況によって決める、と言ってあった。
弟のお嫁さんも小さい子どもがいるから、と、帰ったので、 その後、少しして私たちも帰ってきたのだ。
子供達は実家に預かってもらっている。 アルバムを眺め、泣いて、布団に入った。
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