Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2014年10月05日(日) |
「山形」という曲の、 |
雨が降ります、雨が降る、四谷三丁目の喫茶茶会記へ。
ぶうーむ。CDだけではわからないものだなー。と、言ってみたり、いや、このオレ様は気付いていたぜ、だったり。
タガララジオ44では、
不意にセカンドがリリースされている。平田王子のヴォイスの表情が、ファーストで見られなかった領域に舞っていることに唖然としている。聖性を帯びるほどのキュートさ、奇妙な言い方かな。それに、渋谷毅のピアノ、一音一音にしびれるばかりか、ジャズの感覚でビンビン反応する、フレーズとしてのジャズピアノを弾いているというのではなく。
音楽って、すごいや。
ね。
ね。
と、書いていた、チェックしてみたら。
「聖性を帯びるほどのキュートさ、奇妙な言い方かな。」そんなふうに、書いていたんだっけ。
音楽をスタイルとかジャンルでお風呂につかるように楽しむのも幸福なことなんだけど、なにかお風呂の湯舟のはじっこからポカンと宇宙がひろがっていて、そこからはしごを降ろしてぽんぽん深く掘っていってしまうこともあるんだよ、って。
と、書いた5月24日の偶然からこの日のコンサートは決まっていたのだった。
「山形」という曲の、置いてきたつもりじゃなかった、心の奥のほうの哀しみ、とか。
岡山の美星町の想像。
渋谷毅のピアノの素晴らしさはいつものことだけど、誰も渋谷のように弾けないピアノはどうしてなのだろう、ぼくは聴きながら同じピアノを弾けているのに。なわけない、か。
平田王子ひらたきみこさんのライブをはじめて観た。ともこさんはラジオみたいに心地いいとか思わず泣いてしまったとか言っていたっけ。おれはねー、いろんな仏さまの表情ってあるでしょう?菩薩でも観音でもいいんだけど、よくはないか。生きている観音様だよなあ、あの瞳の美しさ、歌う表情、音楽の歓びは、さあ。
曲名にしている極彩色の小鳥のクリアファイルをかわいくで買ったんだーと、ただただ愛でている場面とか。 あ、そのときのショットだ。 ■ 「音楽評論での異端児 多田雅範さん」、だからおれのは評論じゃないって。
ジョビンの歌詞を説明しながら、一度捨てたオトコのもとにかえるわけないわよねー、という意味の発語を女神のように加えたり。
渋谷さんが「もういいよー」というのに、あえて「生きがい」を歌ってくれてありがとう。
「山形」なんて曲は、ボサノバを突き抜けてしまっているところまで、自分の表現を高めている作品だわなあ。ジャンルを超えた自己の表現、だとか、芸術の高み、だとか、凡庸な書き方だし。
いろんな感情の状態は、気候のように向こうからやって来て、そのうち立ち去ってゆく、という。
思えばそういうものだし、そういうものだったし、そういうふうに明日は新しいんだろう。
平田王子というアーティストの魅力は謎だらけだ。
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