Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2011年03月20日(日) |
橋爪亮督トリオ(+吉野弘志、市野元彦)@喫茶茶会記(四谷三丁目) |
19日の古谷暢康×坂田明はライブレビューをJazz Tokyoに投稿しました。
今日の橋爪亮督トリオ(+吉野弘志、市野元彦)@喫茶茶会記(四谷三丁目)は、・・・大幅に遅刻しました、いいえ、最初から会場に居たのですが粒子が実体を伴ってきたのが後半の3曲目からなのですね・・・
おお、ポール・モチアンの曲ではないだろうか?と耳をそばだてたのは、市野元彦作曲の「Treat」という曲でした。ところどころ、すっと閃くようにサウンドが飛び交うのが大好きだ。
おいらの場合、コンポーザー橋爪とインプロヴァイザー橋爪と、聴き方がふたつあって、おおーいいメロディの味わいだなあ、というのと、おっ、今の入りかた!というのと、瞬間瞬間楽しみまくってしまう。彼らの、囁きあうような編み上げの中にジャズを感じたりECMを感じたり、交感そのものに耳をそばだてていたり過ごすのだ。
インプロヴァイザー橋爪はこないだのノートランクスみたいにタイコや2サックスでクールジャズのスタンダードに向き合うときにより顕著に光る。平井庸一クール・ジャズ・グループで、フリーな展開になったときの、橋爪のインプロヴァイザーとしての狂気をおれは忘れない。
今日のライブは、たゆたうように、持ち寄ったコンポジションに音を交差させあう彼らの瞬間瞬間に、そう、一音一音に彼らの辿ってきた経歴が聴こえてもくるのだ。サックス、ギター、ベースというドラムレスな編成だけが持つ可能性。
彼らの冒険はまだまだ続く。
アンコールの「Home」は最初の数秒でこれはカンペキな演奏だなー、と、到来したもので、即座に脳内レコーディングしてしまったー!いやこれはシングルカットしてFMで流せば問い合わせ殺到間違いなしだと思う、面白いものだな、そして、エンディングに刹那このままフリーな展開に解体再構成の夢幻に進んでもいいんだよおじさんは・・・と妄想することも忘れないのであった。
「Home」はコンポーザー橋爪の境地だ。それにしても橋爪のファンには若くてかわいい女性が多い。この曲についても、何のCDに入っているとかどこで演奏したとか嬉しそうに詳細に話す女の子を見ていると、きみきみインプロヴァイザー橋爪のほうもちゃんと受信しているのかね、橋爪はおじさんたちのものだよ、とむきになりそうなわたしもいる。たしかにハンサムだし長身だし性格はピュアだし、曲はファンタスティックだし、しかしね、コンポーザーなんて世界に山ほどいるんだよ、このレベルのインプロヴァイザーはいないのだよ。
あれだなあ、スタンダードとか他人の曲をやるときに橋爪はインプロヴァイザーの牙を剥くのだな。当たり前・・・なのか?とかなんとか言いながら、つまりは橋爪を聴かないと落ち着いていられない、というのは、彼の音楽がまだまだつかまえられないでいる多面性の証なのだ。共演者や編成、選曲や会場やコンディション、といった変数でどれだけのものを彼はこれから聴かせてくれるのか、ううむ、たまらん。
さて。ライブ主催のコンセプトには「触覚」というキーワードがある。わたしにはまだこの言葉を使うための土台が不備のままでいる。
昨年のECMカフェ@カフェズミで聴いた「Oceanus」などに胸をつくように気付かされていたあの空間性といったもの。おいらの中ではすでに終わっていたはずの70年代ECMが提起していたところの空間性。思えばあれからいろいろな音楽を聴いてきたけれど、この空間を忘れてきたことに、そこにはサムシングがあり続けていたことに気付いたというか。
こないだ友人宅で、スピーカーの鳴りを愉しみたくてリクエストしたのが、パット・メセニー『オフランプ』の1曲目とブラッド・メルドー『ハイウェイ・ライダー』の1曲目だった。思いつきで言ってみたのだけど、この2曲とも、おそろしいほどの空間喚起力があった。唖然として耳は遠くを見つめて旅立ったような。
ここではないどこかへ。
そして。今日、思うのだ。原発にしても、このたびの被災の現実にしても、ぼくはいま練馬の狭いボロアパートにいるのだけど、この都会にしても、いかに単純で脆弱にできていることだろうか、なんとかかんとかやりくりして生きてきたものだけれど、どこにもそんな立派なものなぞなかったことであって、東京電力に勤めている友人にしたってがんばってなんとかかんとかに過ぎないわけだし、しかして、だからダメなものだとはぼくは決して思わない、たずさわっているひとりひとりのつながりはやはり信頼するにあたいしていて、しっかりとわたしもまたささえあう一員としていようと、そう、心に誓うのだ。
そして、ヴィジョンは必要だと思った。わたしにとってだけかもしれない。上記ぞれぞれの曲が見せるヴィジョン。ヴィジョンというのは言い換えれば聴こえる空間のことだ。あこがれの彼方にあるような空間のことだ。あこがれはここではないどこかへだろうか。とにかく地球儀上のどこにもないことは明らかになった。それを逃避だという読みもアリかもしれないけれども、これらのヴィジョンがすくなくともわたしの脳内に映っているということがわたしをちからづける。
ううむ。ファンタジーの効用というハナシになってしまうか。
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