Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2010年09月26日(日) |
純喫茶ECM来場御礼 |
40にん弱のみなさまが会場にいらっしゃったということです。ご来場ありがとうございました!
同い年のドラマーのてんぽうりんさんもクリステンセンに大反応。でしょー!
講演後誠実そうなひとりの青年から「あの・・・ヨン・クリステンセンの作品では他に何がおすすめでしょうか」と質問を受ける。 ああ。またひとり、人生の階段を踏み外したばかりの青年が。親御さん、ECMの深い森にさまよう者に地上の幸福はないのです。
何をおすすめしたかはないしょ。
アップリンクは海原になった。
ラルフ・タウナーの『ダイアリー』のジャケが、フリードリヒの「海辺の修道士」に酷似している、北方ロマン主義の系譜、という福島恵一さんの指摘、を、改めて鑑賞してみて、この絵画は人間の孤独をテーマにしているという通説、だけれども、孤独どころじゃないんじゃないか。厳格な修道院で生涯修行をしているはずの修道士が制服を着たまんまこんな荒涼とした海辺に彷徨っていることなぞ、とんでもないことなのではないか。そこには狂気に触れるようなギリギリの精神のありようが暗示されているのではないか。
わたしがジャズ盤やインプロ盤を手にするとき、基本的にはパーソネルだけがモンダイであり、ジャケやタイトルはあくまで副次的なものになっている。だけどもECMを聴くときにはその構えが解除されている。ジャケのものものしさ、を、手がかりにしているかもしれない。ジャケの図像、色彩、イコン的なるもの、言語を介在させない意味といったものの伝達があるかもしれない。
ブレイ、モチアン、フリゼールの『フラグメンツ』は、これがたとえばJMTとかウインター&ウインターというレーベルで録音したら違う演奏になっただろうという感覚がある。『フラグメンツ』のジャケにはサイ・トゥンブリの影響がある「落書き」「自動筆記」的な描写があるけれども、それは「演奏者がそれを演奏する」から離れた音楽のありようを示唆しているかもしれない。
『海』など、これは4にんのミュージシャンが演奏しているのではなく、アイヒャーというもうひとりのコントローラーが介在しているように感じられる。アイヒャーは時に演奏家とのディスカッションを経て音楽を作っていくものだが、音楽のために演奏家を使っていくという点では、マイルスに似た資質があるのではないか。思えばジャレット、コリア、ホランド、デジョネットというマイルス・バンドからのピックアップがECMの土台を築いている。
ECMのすべてのCDには冒頭に5秒間の無音部分が置かれている。この沈黙には、思い詰めるものがある。サイレンス、沈黙と言っても、国ごとに概念は異なるだろうと思うですが、ECMのサウンドにはいたるところに沈黙があり、その背後には、叫び、望郷、亡命者、郷愁が詰まっているように思える。これらの音楽にはアイヒャーが隠れており、ECMはアイヒャーとともに終わる。ECMのサウンド総体の背後にいるアイヒャーという存在に惹かれ続けている。
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