Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
DiaryINDEX|past|will
2010年09月27日(月) |
音楽には演奏者がいるという神話 |
ジャズ耳とインプロ耳でも救うことのできないECMトラックをECMのハードコアと名付けてみたのだった。
しかし。
このECMを受容する耳のアンテナもしくは構えは、福島恵一さんが連続講演した「即興のハードコア」と実は同じなのではないか? と一夜明けてひざを叩くおいらなのだった。
「即興は最初から音響をモンダイにしていた」というキーセンテンスがあった。
おれ、思えばベイリーやパーカーやドネダを、語法や語り口に追求して聴くジャズのサックス奏者のようには最初から聴いてなかった。 いや、まったくそうは聴いていない、とは言わないけど。
ガルバレクなんてジャズで聴いたら何も言ってない。極めてサウンド的に捉えている。
ドネダなんかサウンド的に、息の奔流として、ざわめきの中の音響運動として、聴いていた。
ああ、そうか。アトス山に向かうのは、途中にあれだけ多彩な即興音響やホセマセダやブラクストンがあって、の、耳の理路だ。
だから原田正夫さんは即興のハードコアとECMには共通点があると看破していたのだ。 ジャズ・即興のポストモダンをいちはやく通過してECMが視えたのだ、アイヒャーは。 『フラグメンツ』の素晴らしさの謎が一歩前進したような気がしている。
ECMもインプロも「誰かが演奏している」というふうには聴いていなかったのだな。極論すれば。
|