Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
DiaryINDEX|past|will
千駄ヶ谷駅、雨の金曜日、hitomiのヨーグルトの大きな広告。
マイブラ。永遠の遠国の1990。 ■ ■ このときに死んでしまっていてもよかったよね。こういうの聴いてピンとこないプロってどうなのよ。
サンディエゴの藤井郷子カルテット。これはいい演奏だ。 Satoko Fujii Ma-do Quartet ■
ウィリアムパーカー、ギレルモEブラウン、何してるか思えば、おのれのフォークの召喚、なのか、2007ねん、トニック。 ■
三善晃の音楽は、現代音楽とか、レコード芸術という枠から、はみ出ていると思う。
中学ん時からエア・チェック小僧ではあった。FMファン、FMレコパル、週刊FMを読み比べて、エアチェックしたい番組をマーカーで塗ってゆくと、いつしか全ページにマーカーを塗らなければならない強迫観念に囚われて、残された人生の時間を思っては眠れなくなって学校を休んだりした。持ち前の収集癖によるものだったが、持ち前の探究心のなさで47さいになったが一向にものにならないでいる。80年代に三善晃の『響紋』と『レクイエム』はNHK−FMで聴いていた。わらべうたに不協和音オケを足すんだー、そんなことを考える作曲家が日本には居るのね、と、音楽の表面はなぞったが、ヌルっと空振りしていたのだった。当時はライヒ、アダムス、シュニトケ、ペルト、グバイドゥーリナ、高橋悠治のLPやCDを買った覚えはある。人気のタケミツは職場の同僚が買ってくれたし、公演にも連れてゆかれた。代々木公園という屋外で雅楽を使ったタケミツ作品を聴いたのは、前夜に渋谷ジニアスでファラオサンダースとセシルテイラーを聴いていたので、すっかり現代音楽から遠ざかるきっかけとなった。・・・ナンノハナシをしているのだ?
三善晃の『レクイエム』『詩篇』『響紋』は「合唱と管弦楽(オーケストラ)のための三部作」と呼ばれており、おれはここ数年で、今後日本国内で行われる合唱+オケの形式の三善作品は全部ライブで聴かなければならない、奇跡を聴き逃してはならないという気持ちで生きているリスナーとなった。このような作品たちをCDというメディアで感得することはむずかしい。
それでも名盤『レクイエム』の復刻は、やはり聴き逃せない。録音には、その時にしか発生していないガイストが刻印されている。ある程度この曲を知っていて覚悟ができていたにしても、この復刻CDを聴いたときは数日間メシもまともにのどが通らないほど打ちのめされた。あれはああいう意味、これはこういう狙い、そこは演奏のそういう良さ、などと、分析しまくるいつものおれは、言葉を発することができずにいた。
ちょっとアマゾンを検索してみると。「三善晃の近作は、作曲者が「意図した音響効果が得られない」と録音を忌避していると伝えられていた。 なかなかCDが発売されず、『谺つり星』などは、実演を聴き逃した者には、如何ともしがたい状況だった。」というテキストに出くわす。なるほど、やはりそうなんだ。三善晃の困難と誠実を理解する。
今回、三善晃の90年代の四部作「夏の散乱」「谺つり星」「霧の果実」「焉歌・波摘み」がCD化された。しかも、この四部作公演が2セット収録された2枚組である。
コンサートホールから抜け出て、CDというパッケージに収まった四部作の響き。この四部作を通して聴いたことはなかった。四部作がひとつの交響曲のようになっている。そらおそろしい体験だ。カーステで爆音で鳴らして過ごしたりもした。早朝の新宿七丁目の交差点で左折するのに減速していると、横断歩道のOLやキャバ嬢たちが「何事が起こったか!」と、半開きの窓からもれる「夏の散乱」の打楽器の乱打をにらみつける。おれは、まだこの響きの全貌は録音に収まっていない、この演奏はどこまで三善の意図に迫っているものか、考えもしながら、イマジネーションを駆使してサウンドの全貌を描こうとしている。交差点で響かせるのはただの迷惑行為であったか、過ぎてから反省する。
厳しい三善が許可した(だろうところの)四部作がここにある。東京と大坂のオケの違い、同じ指揮者でも微妙な音楽の推進の違い、微妙な違いではなく明確な違い。
|