Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2007年09月29日(土) |
ルネッサンスの「ノーザン・ライツ」、イエスの「世紀の曲がり角」。 |
さっき、さ。 NHKの特集番組かなんかの予告、の、BGMに、ルネッサンス■の「ノーザン・ライツ」■ が、かかった。 アニー・ハズラム(女性ヴォーカルのなまえ)の声!、とブラウン管に向かって叫ぶ。なんでおれは憶えているんだ。
聴いたとたんに、おれの指さきや、薄くなった頂頭部や、股関節、ひじのくるぶし、くちびるや眼球、が、高校2年生に戻ってゆく感じを、鳥肌が立つように、ざわざわざわー、と、自動的に感じてしまってほんとうに驚いている。眼球が!、だぜよ。 ついさっき駅前を「今日は疲れた、しんどい」と歩いていたおっさんが、猛ダッシュで飛ぶような全力疾走(おれはこれでも陸上やっていたんだ)をできる身体に変化してしまったのだ。
そんで。
高校のときミーハープログレ好きだったわたしは今、 かれこれ30年近く耳にしていない曲なのに、まざまざと耳によみがえって脳内繰り返し再生をしはじめている、 イエスの「Turn Of The Century」(世紀の曲がり角)。
あ、あ、あ、あ、あ。
いっきに「千と千尋の神隠し」の終盤シーン、千尋がゼニーバのところへ行くのに水に覆われた駅に向かって歩く、あの場所、に、ぼくは居るではないか。
わたしにとっては、プログレとはファンタジーであり、イマジネーションであるのだ。イエスの「世紀の曲がり角」を聴きながら、高校2年生のわたしは白石区菊水元町の2階ベランダから石狩湾に向かって輝く夕焼け、壮大なパノラマとなった音をたてて動く雲、を、見ていた。プログレとは進歩ロックでも、技巧でも、サイケデリックでも、クラシックコンプレックスでも、コバイア語でも、南方プログレ左派でも、ディシプリンでもなく、ドラマチックでイマジネーティブな感動に過ぎないのだ。それが、ミーハープログレ好きであるゆえんだ。
このあたりは、ミーハーECM好きとしてスタートするのと同値なのだな。わかりやすすぎー。
そんなことは書いていると、ばかにされそうなので、ちょいと次に、いかに孤高のハードコア・ジャズ・リスナーとして、キャリアを積んでいったかについて、書いてみたい。
やっぱり、寝る。
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