Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2004年03月15日(月) |
『Lightning / UA』3月24日発売・相田みつをの詩が桜井和寿の詩よりも優れている理由 |
J-WAVEでドリカムの番組を聴いてて(わはは)、度肝が抜かれる。ロヴァ耳が座った目で反応している。 「ううあ、の、らいとにんぐ、すげー!今年のジャズベストだしー!」
『Lightning / UA』(VICL-61316) 3月24日発売 UA待望のニュー・アルバムは、"音とランドスケープ/世界旅行"。国内の多彩、奇才なアーティストとのコラボレートによるサウンド・トリップ!! 鈴木正人(Little Creatures)、大野由美子(Buffalo Daughter)、菊池成孔、外山明、吉田大吉、藤野家舞、他が参加。
UA(ううあ)のこないだのシングル「DOROBON」だって、歌詞は現代詩みたいだし、このシングル盤に収録されているヴァージョン違いでは、パスカル・コムラードによるヴァージョンや岸田今日子の朗読(!)ヴァージョンまであったりして、かなりな予感はあった。
しかし、こんなんなっていようとは・・・。 “ビョークの輸入、には収まらない、さすがにメイドインジャパン、ビョ−ク越え、で、返球す。”
▼ ブランキー解散したあとの浅井健一の音を聴いといて、と言ったです。『AJICO SHOW』、を、聴いていたのは2001年。 日本にはマリア・カラスもビョークもカサンドラ・ウイルソンもおらんけど、UAがいる。 UA(ううあ)をうたのおねえさんにする、NHK、えらい。 NHKは日本の良心であるから、政府からの独立性を保つための受信料、というなら話はわかる。
▼ 午前3時とか5時とか、に、よくJ-WAVE聴いている。もしくはNHKラジオ深夜便。
橋幸夫特集で、 『いつでも夢を / 橋幸夫・吉永小百合』がかかる。 こんなにすてきな歌が成り立っていた頃に戻れないのはわかっているけど、わかっているけど。 この感じ、は、おざけん、なんです。 小沢健二に歌ってもらいたい。誰とデュオにします?
the music i listen today - Ajico Show / Ajico - With A Little Luck / Wings - Love Me For A Reason / Osmonds
▼ (おとといの話題のつづき)
したがってパット・メセニーは耳かきが大好きなはずだ。
そこそこの耳達者な御仁たち、「ぶっちゃけて言うけどさ、パット・メセニーのどこがいいのかさっぱりわからん」。それは、ブラッド・メルドーについても、キース・ジャレットについても、ポール・ブレイについても、ルイ・スクラヴィスについても、ジョー・マネリについても、ミスター・チルドレンについても、クイーンについても、まま言われることがある。
ミスチルにお熱なぼくに、先輩がメールをくれました。とってもいいメールです。
浜崎あゆみが相田みつをのファンらしく、彼女の名作『I am ...』を聴きました。 そしたら浜崎あゆみがわかりました。未婚の女性で、男の子に求められて日々流されてゆく日常に対して、“響く”音楽。
先輩からもらったメールにより、わたしの真っ赤に燃えたミスチル熱はジューッとクールダウンと相対化を瞬時にくぐり抜ける。それはあたかも刀の焼き入れのごとくであり、わたしのミスチル耳が名刀であるかどうかはこれからなんである。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 歌詞(詩)に人生を重ねるにはさまざまな表現のスタンスがあるのでしょうが、 私は、直接的なシチュエーションから生じる心的立場を主体的に表現する方法の深度を疑っています。
たとえば、(ミスチルを含め)こうした人生訓をつづったものは、詩でいえば八木重吉や武者小路実篤の世界だと思うのです。 彼らの詩に書かれていることに反発もしなければ否定することもないのですが、それらがあまりに地上の良心と苦悩であることが、 文学としてのカタルシスではなく、生活の跳躍のためのドラッグ的符牒として機能しているところに限界をみているのです。 私は、八木重吉にしろ、武者小路実篤にしろ、あるいはミスチルの歌詞にしろ、本来これらは他人の書いたものを読むのではなく、自分自身が 自分自身のことばで、自分自身に向かってのみ書き綴るべき言葉であると考えているのです。 (最近興味のある相田みつをはこれらよりも抽象度が高く、かつ背後に禅の思想が横たわっているところが異なります。八木にもミスチルにも、私にはキリスト教的な「我と汝」の基底を感じるのですが...つまり、絶対主体の罪の中心化ですね)
私は、詩は、この世の奥にある、われわれの生活や意識の成り立ちそのものを暗示する「警告」として危険なものであってほしいと思うからですね。詩を読んで、「うっ、ヤバイッ」「なんだこれはッ」と思い、地上の生活・規範・連帯が歪み、壊れなければ、現状のより強度な肯定または否定(それはおなじこと)に係留してしまうからです。 (電流に打たれたように見えたヴィジョンが、それによってさらに深く「現実」を捉えるものであるなら、それは宗教と重なる体験ですね。しかし、信者以外に、その超越体験を語りかけることは危険な側面をもつこともおさえておいたほうがよいかと思うのです...) ------------------------------------------------------------------------------------------------------------
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