Land of Riches
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2003年10月15日(水) |
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宇治という地名に惹かれて手にした宇治十帖スタンプラリー帳に、サンガの試合が 前売りより安く入れる特典がついてたり、母の友人が北海道へ行って土産にくれた 六花亭のバターサンドを(病人なんで(笑))箱ごとゲットできたり、いいことも あるもんです。生きていれば、いいことも、悪いことも。いろんなことがあります。
今日、U-22合宿で紅白戦があったそうです。自分が行ったわけではないので、 全て伝聞になってしまうのですが、現体制で始動してから1年と4分の1ほど経過しても なお、公式戦をこなすたびに山本監督が口にする“見つかった課題”への対処が、 通常の練習から解消しようという意図が皆無であること、そして参加する選手たちに (どう見ても良い試合をしているとは思えない)現状への危機感が乏しいこと、 それを示す事実をいくつも並べ立てて、正直、私はこの五輪代表への思い入れは 皆無に等しい(厳密には現在進行形ではない、ですか。このLRでも、さんざん 「夢の残骸」呼ばわりしてますし)んですけど、その身であっても耐え難いものがあります。
※合宿で起こった“事実”については、「ヨゾラノムコウ」や「ひしゃく」に、 見学者自身によるレポートが掲載されていますので、淡々と綴られた文章の奥底へ潜む 問題点を推察しつつ読んで下さい(まずは後者を読み、前者を読んでから再度後者をどうぞ)
Aさんは、現在のチームの雰囲気が、西村ジャパンのアジアユース直前合宿で見学者を 谷底へ突き落としたソニー仙台戦に似ているとおっしゃったそうですが、言うまでもなく この時と現在とでは、様々な点が違います。U-19(当時)は、アジアユースでは どうにかチームの建て直しに成功し、準優勝を手にするのですが、この過程に、 試合後の夜に行われたというミーティングがあります。このミーティングがSさんとの 電話で話題になったので、いろいろ当時の資料を引っ張り出して再考してみました。
以前にLRへ一度書いたことがありますが、ソラミナのアジアユース直前合宿レポは エリック・サティの「Preludes flasques - pour un chien」より、彼独特の ネーミングセンスが光る曲名をタイトルとして拝借してます。どうして「犬のための、 しまりのない前奏曲」なのかは、今更書くまでもないと思いますし、全4曲のうち 犬の歌(Chanson canine)をあえて外している理由も分かると思います(苦笑)
私は直前合宿の後半戦担当として福島入りしたので、4日目からの見学なんですが (あの時は他のメンバーもレポ歩を書いてくれるものだと信じてました…(笑)) 私的初日の「犬儒学派的牧歌(Idylle cynique)」は、大会直前になっても新システム・ 1トップ2シャドー(後にチームの代名詞となるコレは、この前のステップである 中東遠征が初登場)に試行錯誤するチームへの皮肉で、最終日の「友情をもって (Avec camaraderie)」は、言うまでもなくこの期に及んでレクリエーションタイムを 必要とするチームへの皮肉でした。そして、ソニー仙台戦につけたタイトルである 「内奥の声(Voix d'interieur)」は、もちろん、キャプテンのあの一言を指してます。
「やばいっしょ」 あの最悪試合の後に、キャプテンへ感想を聞くなんて間違ってると、当時既に 非難されまくりましたし、今でも正しかったとは思えません。だって、これは ごく自然な感覚であり、それ以上に“だから、何?”になってしまいます。
しかし、私が泣きTELにいそしんでいる頃、彼らは試合の模様を録画したテープを スタッフに借り、選手のみのミーティングをしていたのです。
ただ、あの試合のビデオを見ながら、選手だけでミーティングをやったんです。 そこでビデオを見ながら、みんなからも結構意見が出て、いいミーティングができました。
…あ、当時を懐かしんでいるわけでも、まして当時の方が今よりも良かったと 嘆くつもりもありません。このミーティングを開いたのはキャプテンで、彼が それを決意したのは、試合のハーフタイムに監督がぶち切れてクーラーボックスを 蹴り飛ばした時だそうですが、この時、それに同意して他の選手へ声をかけたのは 飯尾さんと寿人さん(と遼一さん?)でした。そもそも、キャプテンがそうしようと 思えたのは、キャプテンマークをコロコロ移動させていた(今となってはその印象も 薄くなりましたが、それまでは別に腕章を巻く人=羽田さんと決まってはいませんでした) 西村監督が、アジアユースでは羽田に任せると決め、彼へミーティングをする権利 (それくらいしてもいいから、まとめろという義務、ともいいますね)を与えたからです。
何が言いたいか、といいますと?―現U-22首脳陣は、あの時、寒空へ向かって 「もっとパワーで!パワー! パワーで行け」と叫んでいた西村さんの足元ほども 現状を変えようとする意図が…どうにかしようとする意思があるのか、と。 そして、選手も伸びよう、勝とう、上へ進もうとする願いがあるのか、と。
当時のU-19には(代表チームの生まれ年の区切りが違うのもあり)U-16時代に アジアで敗退した悔しさを知っていたのが、飯尾さんと寿人さんの二人しか いませんでした。日本がアジアにある以上、アジア予選を突破しなければ世界大会には 出られません。悔しさを晴らすには、自分だけではなく、みんなが必死になって 頑張らないといけない、という二人の強い思いは、その頃のインタビューでも 何度も語られています。ミーティング開催への関与も、その一環です、もちろん。
あれからどれだけの時が流れたでしょうか。Jなどで経験を積んだ彼ら(今では クラブが手離したくないと願うレギュラー多数、フル代表さえいます)ですが、 確たる世界大会での実績は、地球の裏側での“あれ”だけ。この年代の中から チョイスされる“選ばれし者=代表”の顔ぶれも時と共に変わってきてますが、 それでも、U-19時代に比べたら、世界やアジアで戦った経験を持つ人の数は ずっとずっと多いはずなんです。つまり、悔しさを秘めた人の数は。
“あの時”レギュラーだった選手も、控えだった選手も、選ばれもしてない選手も 現在のU-22にはいますが、それぞれに世界への思いはあるはずなんです。 …彼らがU-19だったあの頃よりも、ずっと強く。強く、ある………はず、なんです。
私は今でも、アルゼンチン大会のことを思い出すと、悔しくて胸がいっぱいになります。 それは、彼らならもっとできる、という想いに由来してます。あの時の彼らの場合は、 最後の最後(チェコ戦)であれだけのサッカーをやったから、余計なんですが。
だからこそ、メンバーが入れ替わっても、ツーロン@U-21の躍進は嬉しかったし、 五輪代表として立ち上がった頃は、今度こそ、谷間の汚名を払拭して…という希望に 燃えていました。信じていました。私自身のリベンジへの熱意は、彼らにではなく、 次なるユース代表へと変節してしまいましたが、それでもなお、この世代への 愛着というか執着が消えないのは、これまで何度かこのLRで触れた通りです。
練習見学によって明るみに出た、低迷の真相―私は同様に低空飛行を続けるU-20の 合宿見学を熱望(これにはやはり関東在住が必須条件で…それをクリアできるように なった頃には、大熊ジャパンのうち、「上」は消滅しているでしょう。だからこそ、 私は今から「下」の簡易記録庫を作ろうか、なんて思っているのですが)したく なりましたけど、監督・コーチ・キャプテンと肩書きにとらわれず、チームを構成する 全ての人が、もっとチームへの情熱を燃やさないと、本当に駄目だと思いました。
お金を払ってプレーを見てもらうのがプロ。その中で選ばれた人が代表。 代表戦のチケットはJよりも高いのですから―向上心がない人にその資格はないと考えます。
そして、肩書きを持つ人は、持たない人よりも更に強くなければならないと、私は考えます。
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