Land of Riches


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 2001年03月14日(水)   私の名を呼び捨てにしていたのは中学時代の部活仲間だけ 

嫌いなのは嘘をつく人と裏表のある人。
どっちも大人なら使いこなすべき方便だというなら、私は大人なんか嫌いだ。
隠したい顔があるなら隠せ。見せるな。そんなの見たくない。見せびらかすな。


今日は日経が配布される日で、仕事そっちのけでコーヒーを入れつつ読んでいたら(…)
一面下の「春秋」に、久々、耳から血が出そうなぐらい痛い言葉を見つけました。
「まるで死んでいるような者が、死ぬのを一番嫌がる」
17世紀フランスの詩人ラ・フォンテーヌ(代表の練習場みたいな名前だ…)が書いた『寓話』より、だそうで。
Mori(ラテン語で死)首相への皮肉として引用されていたのですが―今の私に皮肉は通じません。
消化―昇華できるだけの心的余裕を完全に欠いているのです。
だから好きな選手の分かりきっている欠点を指摘されるとキレます(俺様的自嘲←マイブームらしい)
『ストライカー』の記事は、金田さんコラムより羽田さん本人の発言の方が余程辛かったですけど…。

メメント・モリ。ミスチルの曲にもありますが―直訳すると「死を想え」。でも違う。想うべきは「生」。
そして、想いすぎると、想うべき対象物そのものがよどむことを実感。いうならば本末転倒。

柳沢さんが手帳に記したという言葉(fromイヤーブック2001)を、私も胸へ深く刻もうと決めました。
「物事はものの見方、考え方次第。負のことさえも、やがては去る」
事実は変わらないが、その意味は自分で変えていくことができる―思えば、一目惚れした富一時代に比べ
漂わせている空気というか、身にまとっている時間の流れは激変してますけど、
(高校時代は彼の周りだけゆっくり時が流れているようで、それがまた好きだったんです)
目の色は、安息の地を遠く遠くに設定しているような眼差しは、変わってない気がして。
メンタルが弱点と言われ続けてて、実際、高校時代からそうだと私も感じてますが、
日韓戦の自分に違和感を覚えていると告白しても、ああ、やっぱり…とうなずけてしまいます。

5年間、常に、彼は、潜行する私よりも、更に深い領域(エリアまたはレベルと読んで下さい)を、
歩んでいる人ですけれど。そう眺めるのが偏見というか幻影でしかないのも分かっているのですけれど。
(選手の第一印象って普通の人のそれよりなかなか抜けないんです…目の形容の仕方とか…)

柳沢敦の上下動は、他者が目に見て把握した“気になっている”ものを、遥かに超越している。
そんな見方するなと本人には怒られるかもしれない。でも、私はそういう“気になっている”。
開幕戦、どうしようもないプレーを見せてくれたけど、どれだけそんな思いを味わっても、
私は絶対に柳沢敦を見捨てることができない。薄紫のユニを着ていた頃から、ずっと、日本一のストライカーだと信じてる。


自分を100%表現することはできないと思いますし、普通の人はしないと思います。
どこかしらに秘密を抱えたり、理想に近い像を演じるべく虚勢を張ったり。
でも、私の理想はそうしないことであって、それを他者へ要求してしまうのです、自身の前に(最悪)
100%ではない、人によっては70%かもしれないし50%かもしれない、もしかしたら1%もないかもしれない、
とにかく表へ出てきた“その人”を五感(第六感も含めて?)をフル稼動させて把握して、接するのですが、
もちろんそれは完璧なその人ではないわけで―ギャップが誤解を生み、決裂を生み、悲劇を生むのです。

言い方はいろいろ変えてますが、結局、自分と他人との差異、それゆえの距離の取り方に
ずーっと、終始、苦労してるんです。だって私以外の他の人は私じゃないから。
それが当たり前と割り切れる人は羨ましいです。いや、世の中の大多数の人は無意識にそう思ってそうですが。

4年前になるのかな―横浜線の線路脇の道、暗闇を歩きながら何気なく放たれた一言が忘れられません。
「コマは本当、お姫様だな」
当時の私は今より絶対にお子様でした。そう言った人は今の私と同じぐらいで、
その頃の私には、その人の気持ちを理解してあげることなんてできませんでした…そうしたかったのに。
ちょっとワガママ、ぐらいの自覚しかなかったのですが―付き合い始めた時、呼び捨てにしたいという望みを拒み、
私が自身で用意したコールネーム(=コマ)を強要しながら、こちらは名前を呼んでほしいという頼みを受け入れず、
名字で呼んでいた、もうこれだけで十二分にお姫様です。王子でなく爺や婆やを欲しがっていた。

あの時に比べたら、私のハンドルを呼び捨てにしていい人はこの世で二人だけ、とか
“ちゃん”付けは忌み嫌う家族や親戚に呼ばれているのを思い出すからマジでやめてほしい、とか
理不尽な…私以外にとっては120%理解不能(許容が不能かは別として)な理屈を並べることがなくなっただけ、
まだ少しは大人になった、もとい、成長しているのかもしれません。ん、“成長”か?

“やぶちゃん”と呼ばれることへの抵抗は色として見えないぐらい…ほぼ感じないぐらい薄くなったけど、
(そう呼ぶ人が年下でない限りはもう怒ったり不快に感じたりしませんので大丈夫です(笑))
“やぶ”呼ばわりされると、いまだにそっと、昔々の記憶が呼び覚まされて、切なくなるんですよね。

色褪せた…美しきセピアへ変色した記憶の意味は、一体どう変わったのでしょう?

今日の一言:「あれ、座談会じゃないから
(昨日の朝から用意してたのにパクリのよう(にやにや))


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