橋本裕の日記
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2008年02月28日(木) 心のなかの明鏡

自分の姿を知るために、私たちは鏡を見ればよい。しかし、鏡のない時代、私たちはどうやって自分を認識していたのだろう。ひとつの方法は水溜りを覗き込むことだろう。つまり水面を鏡のかわりとして使えばよい。

その他に、太陽に背を向けて立てば、足元から影が立ち上がる。あるいは壁に自分の等身大の影を写すこともできる。私は毎朝散歩しながら、自分の影を観察している。そして、足の運びや姿勢の点検をしたりする。

しかし、私が自分を認識するのは、鏡や影からだけではない。もっと大切なものがある。それは他人の私を見る眼である。周りの人たちが私を見る表情や態度を読み取ることで、私は自己認識をつくりだす。つまり、他者を鏡として、そこに自分を写しだしている。

私たちは朝起きて、家人と顔をあわせ、元気に「おはよう」と声を掛け合う。職場に出かけて、「こんにちは」と笑顔で挨拶する。声をかけあい、笑顔をかわすことで、私たちはおたがいに気分がよくなる。それはそれぞれが相手の表情の中に自分を映し出し、自分の存在を肯定的に受け止めることができるからだ。

私たちは社会の中に自分を映し出すたくさんの鏡をもっている。その多面鏡に映される断片的な像を立体的に合成することで、一つのまとまった自己像をつくりあげる。こうした社会的自己認識は、人間だけではなく、カラスやチンパンジーなど、社会を作っているあらゆる動物に一般的に見られるものだ。

このように、私たちは自己像を他者という鏡によってつくりだすが、こうして作り出された自己像は、ある意味で実体のない蜃気楼のようなものだ。ときにはこの虚像にふりまわされ、自分を見失い、生きていく希望さえ失ってしまう。サルトルは「他者とは地獄だ」という。これはこうした他者によってしか自分を認知できない人間の運命を呪った言葉である。

ではどうしたら、この過度の他者依存性から脱することができるのだろうか。さらなる多くの他者とまじわり、他者の鏡を多く持つことだろうか。たしかに有徳人物を友人としてもつことは大切である。しかし、その結果私たちはますます「他者という地獄」に幽閉されないとも限らない。

この地獄から抜け出す方法がないわけではない。それは自分のなかに自分を映し出す独自の鏡を持つことだ。これは難しいことのようだが、釈迦やソクラテスをはじめ古今東西の知者たちは、「私たちはだれしもこのような魔法の鏡を自分のなかに持っている」と説いている。

それが「明知」あるいは「良知」もしくは「仏性」という鏡である。大切なことはこの「内面の鏡」を日々の努力によって磨き上げ、美しい明鏡へと仕上げることだ。

そうすれば、私たちはそこに映し出される自己や世界の姿に、これまでにない信頼と愛情を抱くことができるだろう。私たちに備わっているこのすばらしい才能を、宝の持ち腐れにしてはならない。


橋本裕 |MAILHomePage

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