橋本裕の日記
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2008年02月10日(日) 静かならざる日々

第二章 暑さの残り(1) 

 九月になっても残暑がきびしかった。新聞を読むと温暖化の影響だと書いてある。世界の平均気温がこの100年間で1度近く上昇したらしい。そのせいで気候の変動が大きくなり、旱魃や洪水が多くなった。このままだと北極海の氷が解けて、北極クマが激減しそうだという。

信夫はそんな記事を読みながら、紅茶を飲み、バタートーストを食べていた。春江と二人の孫は一週間ほど前に名古屋の神岡家に遊びに行ったきり帰ってこない。おかげでのんびりできる。もうしばらく一人暮らしを満喫していたいと思っていたが、昨夜、神岡から「そろそろ、来ないか」と電話があった。

信夫は「そろそろ潮時なので、迎えに来てくれ」と受けとって、「ああ」と返事を返した。そのあと、いろいろ話をして電話を切った。話題の一つには温暖化の話もあった。神岡によると、北極海の白熊ばかりではなく、動物園のペンギンも困っているようだ。

神岡のいう動物園というのは、東山動物園のことである。どうやらこの暑いのに、神岡は5歳になる典子を連れて動物園に行ったようだ。神岡の家から車で20分足らずでそこに行くことができる。典子はキリンやペンギンを見て、うれしそうだったという。プールに氷が浮かんでいたらしい。

名古屋に住んでいたころは、信夫もよく東山動物園に行った。信夫はペンギンが好きだった。歩き方ひとつとっても、なんとなくユーモラスで憎めない。春江も子どものころ、キリンや象やペンギンを見て喜んだ。

神岡と電話をしながら、そんな昔を思い出した。死んだ妻と最初にデートしたのも、東山動物園だった。そして妻と交際する前に、信夫は何人かの女性たちとお見合いをしていたが、彼女たちとのデートの場所も動物園だった。ほかにデートスポットを知らなかった。

信夫が名古屋に来たのが24歳の春だ。金沢大学を6年かけてどうにか卒業し、名古屋大学の大学院に進学した。大学院に4年間在籍した後、28歳で愛知県の県立高校の教師になった。最初の学校で信夫は神岡と知り合った。

神岡は当時30歳で、すでに英子と結婚していた。英子は神岡の最初の教え子で、高校を卒業すると二年間短大にかよった。そして卒業と同時に神岡と結婚した。英子の親は反対したが、耳をかさなかった。だから結婚式も正式にはしないで、結婚届けを出した後、京都に一泊旅行をしたが、それが新婚旅行だった。

英子の親が結婚に反対した理由は、神岡の出生に関係があるようだ。母親が広島の被爆者で、すでに母親は原爆症が原因と見られる血液の病気で死んでいた。そのことを知って、英子の親が反対しはじめた。しかし、英子はあとにひかなかった。そして現在の貸家を見つけて、一緒に住み始めた。

信夫が新任教師として神岡のいる県立高校に転勤してきたのは、その3年後のことで、23歳の英子はすっかり落ち着いて、主婦としての貫禄がついていた。信夫が遊びに行くたびに、すき焼きで歓待してくれた。

その後、信夫は神岡や聡子の紹介で数人の女性と交際した。そのなかの一人が静子だった。信夫は数ヶ月静子と交際したあと結婚し、神岡の隣の貸家に引っ越してきた。春江が生まれたのはその2年後である。

信夫は子どもをつくらない神岡夫婦が不思議だった。それであるとき水を向けると、「いやね、おれはお前と違って、どうもあっちが弱くてね」などと冗談半分にとぼけていたが、やがて、「母が被爆者だからな」とぽつりと口にした。信夫は神岡が生まれる子どものことが心配で子どもをつくるのをあきらめたのだと考えた。

それからしばらくして、神岡が信夫を家の近くの公園に誘い出した。池の中に突き出した浮御堂で、池に咲く蓮の花を眺めながら、神岡はいつになくまじめな口調で、聡子が子どもを生めない理由が自分の精子が異常だからだと打ち明けた。そして思いがけないことを切り出した。

「英子が子どもをほしがっている。協力してくれないか」
「なんだって?」
「英子に子どもを生ませてやってほしい」
「俺に浮気でもしろと言うのか」

 信夫は戸惑った。神岡はしばらく池の中の蓮の花や、その葉陰を動いている鯉をみつめていた。そうして気持を整理しているようだった。しばらくして神岡は口を開いた。

「浮気ではない。これは慈善事業だ」
「慈善事業……」
「お前は人助けをするんだ。お前と英子の子どもを、おれは自分の子どもだと思って、大切にそだてるよ」
「しかし、英子さんがどう考えるか……」
「あいつはお前の子どもがほしいそうだ」

信夫は言葉をうしなった。信夫は信じることができなかった。といって、このことを英子に直接問いただすこともできなかった。途方に暮れているうちに、この話はいつか立ち消えになった。その後、神岡はもうこの問題を持ち出さなかった。

バタートーストと紅茶の朝食を食べ終えた信夫は、縁側から庭先を眺めながら、そんな昔のことを思い出していた。英子の子どもを生んでいたら、もう24,5歳になっているに違いない。英子に似て、利発な青年に育っているかもしれないなどと、なにやら感傷的な気分になった。

そしてふと、この話を妻の静子は知っていたのだろうかと気になった。神岡はこの計画を静子には秘密のまま進めるつもりだったのだろうか。ひょっとして、神岡の計画が挫折したのは、静子の反対があったからではないのか。

名古屋市の借家からここに移ってきたのは、神岡からそんな話があって数年後のことだった。その頃はすでに二人の気持が微妙にずれはじめていた。信夫が家を買おうと思ったのは、そんな夫婦の関係を立て直したいと思ったからだ。

静子も家を買うことに反対はしなかった。むしろ乗り気でさえあった。しかし、神岡夫婦と離れてみても、その後、二人の関係は悪くなるばかりだった。

信夫は些細なことで苛立ち、静子に当り散らした。それを見て、春江が泣き出すこともあった。どうしてあの頃、どうしょうもなく心が荒れていたのか。信夫は不平不満の塊だった当時の自分を思い出して、何だかいたたまれなくなった。

信夫は立ち上がると、縁側に出て空を眺めた。まだ残暑が厳しかったが、空には秋の気配があった。信夫は縁側の陽だまりの中にいながら、ひんやりとした気配を感じて立ちすくんだ。


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