橋本裕の日記
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去年の4月に次女が就職して、私の扶養家族は妻だけになった。これを機会に、家計もいくらかゆとりがうまれた。とくに私の小遣いがアップしたので、私のおごりで妻と二人で喫茶店に行ったり、外食したりする機会も増えた。
一昨日も尾西文化会館へ「KOBUDO」の演奏会を聴きに行った。ピアノ(姉尾武)と尺八(藤原道山)とチェロ(古川展生)の若手3人の生きのよいアンサンブルである。曲目の中に私の好きなカザルスの「鳥の歌」やラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、「荒城の月」などがあった。
とくに古川展生のチェロの温かい音色には妻ともども聴きほれたが、藤原道山のシャープな尺八もなかなかいい味を出していたように思う。これからはこうした文化的な体験をふやして行きたい。
さて、昨日は妻と二人で木曽川の河原に行き、妻がトビやアオサギに餌をやるのを眺めた。エサはカシワの皮だ。これが彼らの好物らしい。あいにくの小雨模様で、いつもの半分しか来なかったが、それでもトビが10羽、アオサギが3羽、カラスも数羽来て、妻が川の中に撒くエサをわれがちに奪っていく。
妻はこのほかに、用水路の方にも毎朝小魚を撒きに行く。ここにはシロサギが何羽も妻が来るのを待ち構えている。妻の顔を見ると、「ガア」と鳴いて寄ってくるのだという。妻は以前からこれをやっていて、4年前に妻が入院したときには、私がエサやりを代行させられた。
ところで、心配なのは毎日のエサ代である。昨日妻にこの点を問いただすと、「小魚だけで毎月1万円くらいかな」という。これにカシワの皮代を加えればさらに出費は増えるはずだ。扶養家族は妻一人だと思っていたが、いつの間にか私の扶養家族にシロサギやアオサギやトビたちが何十羽と加わっていた。これには驚いた。
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参考までに、「鳥の歌」についての有名なエピソードを、チェリスト井上頼豊の「回想のカザルス」(新日本新書)より引用しよう。
<95歳直前の1971年10月24日が、カザルス最後の国際舞台になった「国連デー」記念コンサートである。いまだに語り草になっているこの公演は、豪華な出演者への期待もあり、国連総会参加の各国代表とその家族たちで、大会議場は超満員だった。
この日のためにカザルスが作曲したオーケストラと合唱のための《国際連合への賛歌》が初演され、ウ・タント事務総長がカザルスに国連平和メダルを贈った。つづいてスターンとシュナイダーによるバッハ《二つのヴァイオリンのための協奏曲》や、ホルショフスキー、ゼルキン、イストミン協演のバッハ《三台のピアノのための協奏曲》などのあと、もう一度《国連賛歌》が演奏されて、プログラムは終った。指揮台をおりたカザルスは、しずかに客席に話しかけた。
「私はもう十四年もチェロの公開演奏をしていませんが、今日は弾きたくなりました」 運ばれてきた愛用のチェロを手にとって、彼はいう。
「これから短いカタルーニャの民謡《鳥の歌》を弾きます。私の故郷のカタルーニャでは、鳥たちは平和(ピース)、平和(ピース)、平和(ピース)!と鳴きながら飛んでいるのです」 彼は右手を高く上げて、鳥が飛ぶように動かしながら、ピース、ピース!とくり返した。
「この曲はバッハやべートーヴェンや、すべての偉大な音楽家が愛したであろう音楽です。この曲は、私の故郷カタルーニヤの魂なのです」
静まり返った会場に流れた《鳥の歌》。その感動をことばで表現するのはむずかしい。強いていえば、巨匠の人生と思想がこの短い曲に凝縮されて、聴くものの心をゆさぶった、ということだろうか。全聴衆と演奏者が、そして世界に放映された録画に接した人たちが、同じように涙を流したのだった>
http://www.pippo-jp.com/peace/index.html
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