橋本裕の日記
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2008年02月03日(日) 静かならざる日々

第一章 暑さのさかり(4) 

 信夫と神岡が額の汗を拭きながら庭に入っていくと、縁側で春江が純也に乳を飲ませている最中だった。典子は縁側から少し離れた畳の上で昼寝をしていた。いつもの習慣で、小熊の縫いぐるみを隣においていた。

春江ははだけたブラウスの胸を片手で隠すようにしながら、神岡に挨拶した。神岡は「やあ、春江ちゃん。ひさしぶり」と、相好を崩して、春江に近づいて腰を下ろした。

「最後に会ったのは、高校生の頃だものね」
「はい」
「きれいになったね」
「それほどでも」

春江の和んだ態度が珍しかった。静子が事故死したあと、娘の春江から笑顔が失われた。十日ほど前に二人の子どもを連れて帰ってきてからも、春江の表情は神経質にとがっていた。それが今はいくらかやわらかく見えた。

「信じられないね。春江ちゃんがお母さんだって」
「それ、どういう意味でしょう」
「だって、おじさんの家に遊びに来て、寝しょんべんしたろう」
「いやなおじさん」

春江はタオルを胸の前にあてて、乳首を隠しながら純也を引き離した。純也がそれを嫌って、タオルの端を掴み強く引いたので、ふくらんだ胸があらわになった。春江はあわてて乳首を純也に含ませた。神岡は手を伸ばして、純也の頭を撫でた。

「純也君、いくつになったの」
「もうすぐ1歳と3ケ月です」
「そうか」
「なかなか乳離れをしなくて」
「しばらく見ないうちに、おっぱいも大きくなった」
「あんまり見ないでください」

そういいながら、春江は微笑んで乳を与えていた。盛り上がった乳房に静脈の葉脈のような青い線が浮いている。信夫も庭先から春江が乳を与える様子を眺めていた。久しぶりにやさしい気分になった。

座敷で寝ていた典子も置きあがって、小熊の縫いぐるみを抱えて縁側にやってきた。春江に「神岡のおじさんよ。ご挨拶をしなさい」と言われて、眠たそうな顔をして頭を下げた。神岡はその頭を撫でながら、信夫に声をかけた。

「いいものだね。小さい子がいると、家の中が明るくなる」
「まあ、そうだな」
「うらやましいね」

 神岡夫婦には子どもがいなかった。そのことで神岡は淋しい思いをしていたようだが、「うらやましい」という言葉は意外だった。神岡が思い出したように春江に言った。

「春江ちゃんも、このくらいのとき、縫いぐるみを抱いていたよ」
「そうですか」
「おぼえていないの」
「ええ」
「やはり小熊のぬいぐるみだったな」

二人の会話に、信夫が割って入った。春江がちょっと意外そうに顔を上げた。神岡がうなずいて、信夫と春江の両方を交互に眺めながら話を続けた。

「春江ちゃんはほかにもパンダとか、いろいろもっていたね」
「パンダは誕生日祝いに、買ったんだ」
「パンダはクリスマスのプレゼントだったわよ」
「ああ、そうだったな」

 信夫が春江とこんな会話をするのは初めてだった。神岡が中に入ることで、親子の気持が少しだけ寄り添ったようだ。それでもまだ春江は信夫をまっすぐ見ていなかった。神岡とは眼を合わせるのに、父親と目が合うのは避けているようだった。

信夫も縁側に腰を下ろした。そうすると春江の乳首を吸っていた純也が、信夫を見てはじめて笑った。信夫が顔を近づけると、乳臭い甘いにおいがした。春江が胸元から純也を離しながら、

「麦茶でももってきましょうか」
「ああ、たのむよ」

春江が純也を差し出したので、信夫が抱きかかえた。それから春江は台所に行った。典子が縫いぐるみを抱いたまま、母親を追った。蝉の声もやんで、あたりがしんとした。神岡は庭を眺めていた。

「ずいぶん荒れているじゃないか」
「うん、放って置いたからな」
「どうだ、また、やりなおすか」
「そうだな」

 信夫は苦笑した。20年前に家を買って庭作りを始めたころ、神岡は信夫の家に泊まりこんで、一緒に手伝ってくれた。石灯篭を買いに行ったのも神岡と一緒だった。そのころは妻の静子も乗り気で、庭に水仙や忘れな草などを楽しそうに植えていた。

「また、やりなおすか」という神岡の言葉が、信夫には今後の自分と春江たちの人生もふくめているように響いた。神岡の気持はありがたかったが、信夫はその気になれなかった。胸の奥に固まっている根雪のような冷たい感情をどうすることもできなかった。

春江の運んできた麦茶をうまそうに飲んだ後、神岡は「ああ、おいしいお茶だった。生き返った」と言って立ち上がった。

「春江ちゃん、一度遊びにおいで。泊りがけでね」
「ありがとうございます」
「家内も顔が見たいと言っていたよ。典子も純也も連れておいで」
「はい、そのうち、おじゃまします」

「ゆっくりしていけよ」と信夫が引きとめたが、神岡は「今日はそうもしていられない。これから会うんだ」と、信夫にウインクしてみせた。やはりここへ立ち寄ったのもアリバイ作りだったのかと、信夫はあきれて笑うしかなかった。

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「静かならざる日々」
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