橋本裕の日記
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| 2007年09月07日(金) |
会話力の根底にあるもの |
言葉にはそれが語られる場がある。そして言葉の意味はその語られた現場において生成する。だから言葉が語られた場の状況を考えずに、言葉の意味を理解することはできない。つまり、言葉の意味は言葉を語る人や場の状況のなかで確定される。
これは話し言葉だけではなく、書かれた言葉においても同様である。ひとつひとつの言葉は、文章のコンテキストのなかで意味が生成してくる。さらには、その文章を書いた書き手や、それを読む側の条件によっても変わってくる。
A「しまった。財布忘れた」 B「お金持っているよ」 A「ありがとう」
ここでB君が言った「お金持っているよ」に注目しよう。この言葉は「心配しないでいいよ。貸してあげるから」という意味である。A君はそれを知っているから、「ありがとう」と素直に応じている。
言葉の意味は辞書の中に書いてあるが、それはあくまでも「辞書的な意味」であり、言葉の持つ本来的な意味ではない。言葉は気持を伝えるために語られるのであり、そのために私たちは文をつくりあげる。そして文の本来的な意味は、話して手が語ろうとしたこと、つまり「話し手の気持」の中に求められる。
しかし、そのようにして語られた言葉は、ひとつの客観的な存在(音声、文章)として話し手を離れることも事実だ。そのあと言葉は聞き手(読み手)の解読作業へと引き継がれる。そしてそこで、生命を吹き込まれ、言葉としてよみがえる。
話し手→音声(文章)→聞き手
言葉そのもの、文そのものが独立して意味を持っているわけではない。あくまでも言葉の意味は、話し手と聞き手の信頼関係の中で生まれる。言葉の意味がこの相互信頼関係による共同作業を離れて客観的に存在するわけではない。そう見えるのは錯覚である。
しかし、この錯覚に根ざした教育が広く行われている。そのせいか、私たちのコミュニケーション能力はそれほど発達していない。ときとして話し手と聞き手の間で不毛な議論が繰り返される。
私たちは辞書と文法さえわかれば言葉が話せて、コミュニケーションができるわけではない。大切なのは、その前提にある相互的信頼関係である。「相手の言葉が分かる」ということは、「相手の気持が分かる」ということだ。会話力の根底にあるのは、こうした人間的な共感能力である。
(今日の一首)
虫すだく9月の夜はしみじみと なき友のこと思い出だせり
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