橋本裕の日記
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2007年09月05日(水) 気持を伝える言葉

 私たちは毎日言葉を話したり書いたりしている。何のために言葉をやりとりするのか、それは自分の気持を伝えたいからだ。自分の心の中に伝えたい何物かがあり、そして伝えたい何者かがいて、私たちは言葉を発する。

伝えたいものは基本的には「自分の気持」である。たとえば車道を横断しようという人がいて、トラックが近づいてきたとき、「あぶないよ」と声をかける。この「あぶないよ」という中に、私の相手を思いやる気持が入っている。

声をかけられて、足を止めたその人は、私を見て、「ありがとう」と声をかける。その言葉の中には、その人の感謝の気持が入っている。言葉を通して、このように私たちは心と心のやりとりをしている。これは今も昔もおなじである。

<やまとうたは人の心をたねとしてよろつのことの葉とそなれりける、世中にある人ことわさしけきものなれは、心に思ふ事を見るものきく物につけていひいたせるなり、花になくうくひす水にすむかはつの聲をきけは、いきとしいけるものいつれか歌をよまさりける>(紀貫之「古今和歌集仮名序」)

 言葉というのは気持を伝えるものであり、主観的なものだという考え方について、異論がないわけではない。言葉はもっと客観的なもので、しっかりした基盤を社会や世界に持っているというのである。

たしかに言葉は論理的な構造を持ち、その構造のなかに客観的な世界を写すしくみをそなえている。私が世界経済の現状についてレポートするとき、私は世界の情勢をそこに生き生きと映し出そうと努力をする。

また、そうして出来上がった私の論文を読んだ人は、そこに世界の姿を読み取り、「なかなかみごとな分析をされていますね」と賛辞を呈してくれるかもしれない。言葉というのはたしかにそれが指し示す対象をもっている。そして言葉の構造はその対象のありかたと無縁ではない。

言葉のもつこの志向性は大切である。だから言葉を単に主観的なものというのは言いすぎなのだが、だからと言って純粋に客観的な言葉というものも存在しない。じつのところ、私の世界や社会について書かれた論文も完全に客観的なものだとはいえない。そこに私の主観(気持)が色濃く投影されているからだ、

私たちは純粋に客観的な世界を再現するためだけに言葉を発することはない。私が社会について論じるときは、「平和で幸福な社会を築きたい」という思いが根底にある。そしてその「思い」を多くの人々と共有したいがために、ときには寝食を忘れて長文の論文を書く。

数学の問題について書くときも、私はこの世界が持っている数的な秩序の美しさに打たれて、その感動を分かち合いたいと感じる、この思いがこみ上げてきた時、私は追い立てられるようにして文章を書く。

われ等にありては「写生」彼にありては
「意志の放出」「写生」の語はよし

これは斉藤茂吉の歌である。歌は「写生」といいながら、しっかり「意志の放出」をしている。「意志の放出」をしていないような写生中心の歌でも、その写生を通して伝わってくる歌の心がある。これがなければよい歌とはいえない。

言葉は私たちの心に「伝えたい何物か」が宿ったときに生み出される。それではどのようなときに「伝えたい何物か」が私たちの心に宿るのだろうか。それは私たちが人生において「何物か」に出会ったときである。その出会いを通して、相手に伝えたいという心が動き、言葉を発するわけだ。

もう少し言葉を足せば、私たちが自分の中から一歩踏み出し、新しい世界に入って行ったときである。このとき世界が新しく感じられると同時に自己が更新される。ハイデガーはこうした実存的な生のありかたを<企投>と呼んだ。その意味は、「自分を新しく世界に投げかける」ということである。

この「投企」ということを中心に考えると、私たちは最初から伝えたい何かがあって、そして言葉を選択するというわけではなさそうだ。私たちは言葉を発したとき、まさにそのとき、話したい何かを獲得する。そして人生がそうした「投企」の場であることで、創造的な言葉や生き方が生み出されてくる。

言葉にはこうした複雑な事情があるものの、その基本的な性格を問われたら、私は「言葉とは気持を伝えるものだ」と答えればよいと考える。まずこの基本から出発して、いろいろともっと深いことを考えて行けばよいわけだ。

なお、ハイデガーの「投企」という考えを中心にした言語論を、私は10年ほど前に書いた人生哲学論「人間を守るもの」のなかでくわしく展開している。興味のある方には、第二章「精神と言語」、第5章「真人の世界」が参考になると思う。

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/ninngen.htm


(今日の一首)

  秋空に柿ノ木伸びるすくすくと
  我が背をこえて若葉伸びたり

 3年前に畑に植えた富有柿の苗が、8月の末頃からすくすく伸びだした。春先にはほんの少ししか伸びなかったのに、今ごろになってがんばりだした。来年の秋には実をつけてくれるだろうか。散歩の帰りに柿の若葉を見るのがたのしみである。


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