橋本裕の日記
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小学生の頃、福井から若狭の片田舎に引越ししたとき、「おまえの言葉は早すぎてわからない」と地元の人に言われた。方言や訛りの問題もあったのだろうが、それ以上に私の早口が問題だった。田舎ではゆったりと時間が流れている。町からやってきた私が、村の人たちにはせっかちにみえたのだろう。
田舎に暮らしているうちに、私の早口は影を潜めた。私もいつか田舎のゆったりとした時間の中にこころよさを覚えるようになっていた。そして小学生の頃培われたこの時間感覚は、現在の私の時間感覚の土台になっている。
私は早口でまくしたてるように話す人が苦手である。だからテレビは敬遠したくなるし、文章でも早口でまくしたてるような騒々しい文体は生理的に受け付けない。なんだか昔の、早口で機関銃のようにしゃべっていた軽薄な自分を見ているようで、いやな気分になる。
それでも日本語ならまだよいのだが、英語となると苦手というより苦痛である。もうまるで何を言っているのかわからなくなる。それでも通常の会話のときは、「Pardon?」と聞き返すことができる。しかし、テレビのニュース番組や映画を見るときは、英語の流れについていけなくなる。そして、「何をそうあせっているのだ。なぜ、もう少しゆっくり話さないのだ」と腹が立ってくる。
英語ができる人からみれば、これが「ナチュラルスピード」だというのだろう。しかし、私にはこの速さはとても「ナチュラル」だとは思えない。大方のネイティブが話しているマシンガンのような気ぜわしい英語を聞いていると、何だかゆとりを失って、病的な精神状態にあるのではないかと心配になる。
やたらと単語をくっつけて、音を省略する。そしてスピードを競いあう。あたかもスピードこそがすべてであるといわんばかりである。しかし、その早口の英語の正体はと言うと、たいした内容を話しているわけではない。文章にしてみると、知性の片鱗も感じられないような、じつに他愛のないことが多い。だから余計に腹が立ってくる。
先月の30日になくなった小田実さんも、 ネイティブと人たちと話す時は、「(英語は)君にとっては母国語だが僕には外国語だ。ゆっくり話しなさい」と堂々と主張していたという。彼のような若い頃にアメリカの大学に留学し、世界を放浪した英語の達人でも、ネイティブの早口にはついていけなかったようだ。
私はネイティブたちの早口についていけるだけの耳を持ちたいとは思うが、彼らのように早口にマシンガンのような口調で話したいとは思わない。できることなら、ゆったりとした口調で悠々と己の思うところとを語りたい。スピードを競うのではなく、その内容で相手の心に何がしかの感動を与えたい。これは日本語の場合も同じである。
(今日の一首)
蒼白き時の流れに身をまかせ 息をしている星のかたすみ
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