橋本裕の日記
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2007年07月20日(金) 裸の十九才

 若い頃に出会った無数の映画の中で、最近もういちど是非見てみたいと思う映画が何本かある。1970年に公開された新藤兼人の「裸の十九才」もそうした映画のなかの一本だ。

 私が18歳の1968年、世間を震撼させた連続射殺魔事件が起こった。東京、京都、函館、名古屋で警備員やタクシー運転手、4人が射殺された。犯人は永山則夫という19才の少年だった。新藤兼人監督は事件から2年後に公開されたこの映画で、この少年の生い立ちから犯行までの経緯をドキュメンタリータッチで描いている。インターネットで検索したら、この映画を手際よく紹介したHPに出会ったので、引用させていただく。

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 山田道夫(原田大二郎)は中学卒の集団就職の一人として青森県から上野駅に着いた。渋谷のど真ん中にあるフルーツパーラーに就職するのだ。4人部屋の寮に住み込み生活を始めた。大西先輩(河原崎長一郎)は厳しいが面倒見もいい。野川専務(渡辺文雄)から初めての給料を渡された道夫は母親に手紙を書いた。

 青森県で魚の行商をしている山田タケ(乙羽信子)は、道夫からの手紙を読む。『・・・・カアチャンニ、2000円オクリマス。コレカラモマイツキオクリマスカラ、タメテオイテ、テレビヲカッテネ・・・・』

背広を月賦で新調した道夫はいっぱしの大人気分だった。渋谷駅前は全共闘の学生たちのジグザグデモとそれを取り巻く機動隊とで騒がしい。群集の中の道夫はある種の羨望をもって見ていた。

一緒に就職した仲間が一人去り、二人去り、やがて道夫も辞めてしまう。外国に行こうと横浜港の貨物船で密航を企てた道夫は捕まり、千葉でタクシーの運転手をしている長兄の家に引き取られた。

夜中に隣の部屋から長兄の嫁の愚痴が聞こえてきた。「いつまで置いておくつもり?あの子のいってる肉屋の給料日、今日だったんでしょう。出て行ってもらえないの?」 「そういう訳にもいかないよ」
半年後、道夫は長兄の狭いアパートを飛び出す。

大阪の街をあてもなくさ迷う道夫。渋谷のフルーツパーラーを辞めて大阪の大きな自動車部品製造会社に就職したと母親に嘘を言ったのだった。米屋で住み込みで働き始めた道夫は、女将が夫に話すのを聞いてしまった。
「あの子の生まれは網走無番地になってますな。網走の番外地いうたら刑務所のあるところどっしゃろ」 「刑務所で生まれるわけないやろ。まあ、ええやないか、よう働くし・・・」と、主人の声。「それが曲者なんや、あの年で女を買いに行くらしいのだす。おとなしい顔してますけど、何をしでかすかわからしまへん」
道夫はそこを飛び出した。

道夫は再び東京へ舞い戻り、牛乳配達、クリーニング店、電気屋と職を転々とした。そして電柱のポスターを見て自衛隊の募集に応募する。「山田道夫さんですね。身上書で不合格になっています」 応募して一週間もたつのに連絡がないので、自衛隊東京連絡部まで出向いた道夫に受付嬢は応えた。「誰が僕を落としたんです。僕の身上書のどこが悪いんだ!」

プリンスホテルの敷地内に侵入した道夫。プール脇でガードマンに呼び止められる。挙動不審の道夫はガードマンに連行されようとした。道夫の手に拳銃があった。「バン」 ガードマンがくず折れ、大きく目を見開いて道夫を見た。2発、3発。道夫、必死にその場を逃げる。最初の殺人だった。

京都、八坂神社境内で寝ていた道夫の顔を懐中電灯が照らした。「・・・ここは寝るところじゃないぞ」警備員だった。道夫の肩を掴み立たせようとした、その時、「バン」 道夫の拳銃が鈍い音を発した。2発、3発。警備員、断末魔の悲鳴を上げて倒れる。道夫が茂みに身を隠すと、悲鳴を聞きつけ駆けつけた他の警備員たち。「あっ、やられてる」「まだその辺にいるぞ!」第二の殺人だった。

道夫は北海道網走の以前住んでいた家の前に立つ。朽ち果てた我が家。道夫の脳裏に幼い頃の極貧の日々が蘇える。貧乏な割に子沢山の家庭。博打好きな父親はろくに家に帰らず、帰ると家のものを持ち出し金に替えてしまう。母親が行商に出ると、幼い子供たちは僅かな食物を分けあい、飢えをしのいだ。長女の初子は借金を頼んだ人夫頭にかわりに強姦された。幼い道夫はその様子を見ていたのだ。初子は以来、精神を冒され精神病院の独房に入っている。

函館駅前からタクシーに乗った道夫は、うら寂しい郊外で運転手を撃った。痙攣している運転手を冷静に見ている。そして、売上金を盗んだ。第三の殺人。

名古屋の大衆食堂。板前が女の子を従えて道夫のテーブルへやってきた。
「今、この子に言ったことをそのまま言ってみろ!」
「このカツ丼がまずいって言ったんだ。こんなにまずいもんで良く金がとれるなって言ったんだ」
「まずけりゃ食うな!」 「客に向かって生意気な口を叩くな!」 道夫と板前は殴りあいになった。様子を見ていた中年のサラリーマンが板前に加勢して叫んだ。「近頃の若い奴は生意気だ!やっつけるんだ!」 道夫は袋叩きにあった。名古屋の寂しい倉庫街。タクシーで来た道夫が運転手を撃った。第四の殺人。

再び東京。名古屋で知り合った女と東京でアパートを借りて生活を始めたが、女にはやくざ者の男がいてひと悶着あった。夜、とある事務所に忍び込み、ロッカーを物色しているところをガードマンの懐中電灯が照らした。「誰だ!」 道夫、拳銃を構えて飛び出す。警棒が道夫の顔をとらえる。道夫、拳銃を発射しながら逃げる。

早朝、神宮外苑の参道を道夫が歩いていると、パトロールカーが止まり、二人の警官が降りてきた。「どっから来たんだ?」 「あっち」 「なにやってるんだ?」 「マラソン」 「職業は?」 道夫、震え始める。「これはなんだ?」 警官が道夫のポケットの拳銃を発見した。「おまえ、やったな」 こうして、山田道夫は逮捕された。

山田タケの家に報道陣が大挙押し寄せた。夥しいカメラのシャッターの音。
「お母さん、道夫君のことを話してください。道夫君が連続射殺魔として逮捕されて、どんな気持ちですか?」
タケは記者たちに囲まれ、ただ怯えるのだった。

拘置所の面会室でタケが道夫と面会した。二人は食い入るように相手を見つめた。タケも道夫も涙を流している。やがて・・・
「・・・母ちゃん・・・あの時、なんで僕を網走へ置いていったんだ」
「・・・道夫、ゆるしてくれ・・・ひもじかったべ・・・母ちゃんが悪かった・・・ゆるして・・・」 すでに年老いて白髪となった母は息子に両手を合わせるのだった。

道夫は独房の小さな窓を見上げる。
『私は生きる、せめて二十歳のその日まで。寒い北国の最後と思われる短い秋で私はそう決める』

http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/hadaka19.htm
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 新藤監督はこの映画を撮るために、永山則夫の生まれ育った青森へ行き、彼の母に会い、中学の先生や、友達など、可能な限りの取材をしたそうだ。しかし、新藤は「私たちが描こうとするのは、事実の永山則夫ではなく、永山則夫に集約された何千万という永山則夫である」と語っている。

 この映画を見て、私は衝撃を受けた。私もまた彼のような境遇におかれたら、そして世間から彼のような辱めを受けたら、連続殺人犯になりかねないと思ったからだ。そして、「もし、私たちが神の目を持っていたなら、そして一人の人間のその生い立ちから現在までをすべて目撃していたなら、私たちはその人間がどんなに凶悪な殺人犯であろうと、その人間を憎むことはできないだろう」と、こんなことを考えた。

 この映画を見て、私は「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉の深い意味を、とてもよく理解できたように思った。そして罪を憎むということは、つまりはそうした犯罪を生み出す社会を憎むということだと理解した。ある意味で私の人間観や世界観を変えるような、そういう記念すべき映画、それが「裸の19歳」だったわけだ。

 犯人の永山則夫もまた、独房の中でこのことに気づいたようだ。彼はマルクスや他の哲学書を読破し、1971年には手記「無知の涙」(合同出版)を発表した。この頃学生運動に参加していた私は、この本を買って、深い共感を持って読んだ。私の本棚の中に、マルクスの資本論と、殺人犯の手記とが仲良く並んでいた。

 永山則夫は「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない。」として、1990年に最高裁判所で死刑判決を受け、1997年8月1日、東京拘置所において死刑が執行された。享年48歳だった。

 彼の死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。ウイキペディア「永山則夫」によると、これは「著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしい」との永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められているのだという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E5%89%87%E5%A4%AB

(今日の一首)

 罪人となるかならぬか紙一重
 罪を憎んで人を憎まず


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