橋本裕の日記
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2007年06月25日(月) 心の世界を開く俳句

 梅雨の季節になると、散歩が億劫になる。それでも傘を差して出かける。そうすると気分が次第にほぐれてくる。血液の流れもよくなり、鬱屈していた気分もほぐれだす。昨日は一日雨だったが、木曽川を越えて笠松まで歩いた。

 さみだれをあつめて早し最上川

 橋の上から、木曽川を眺め、芭蕉の句をくちずさんだ。芭蕉は貞享元年(1683)から翌年にかけての「野ざらし紀行」の旅で何度か岐阜を訪れ、最上川ならぬ木曽川を下って、笠松で一泊している。「最上川」の句より5,6年前のことだ。


 笠松には木曽川へ下る坂道に往時を物語る石畳が残っている。傍らにはくちなしの花が匂い、紫陽花も咲き始めていた。なかなか風流である。私はこの石畳を踏んで、河原に下り、芭蕉のむかしをしのんだ。この笠松の地で、芭蕉はかなりの句を詠んでいる。たとえばこんな句がある。

 時雨ふれ笠松へ着日なりけり

 春かぜやきせるくはへて船頭殿

 この笠松の句から2年後の貞享3年(1686)に、芭蕉は「古池や」の句を読む。この句によって芭蕉は俳諧に新しい境地をもたらした。

 古池や蛙飛びこむ水の音

 この句の2年後、芭蕉はいよいよ「奥の細道」の旅に出る。そして冒頭の「さみだれ」の句をはじめ、数々の名句を生み出す。そのなかでもひときは名高いのが、次の句だろう。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

 この名句について、長谷川櫂さんが、「国民的俳句100」のなかで、こんなことを書いている。なるほどと感心したので、引用しておこう。

<この句、芭蕉が3年前に読んだ古池の句とそっくり同じ構造をしている。古池の句は蛙が水に飛び込む音を聞いて、心の中に古池の面影が浮かんだという句だった。一つの音「蛙飛び込む水の音」がきっかけになって「古池」という心の世界が開けた蕉風開眼の一句。

 その蕉風の世界をさらに広げるために芭蕉は「奥の細道の旅」に出かけた。そこで古池の句の朦朧たる世界の中から、この宇宙的な静寂の一句を生み出した。「岩にしみ入る蝉の声」が「蛙飛び込む水の音」に、「閑さ」が「古池」に当たるわけだ>

 芭蕉の俳句の凄さは、なんでもない日常の世界のただなかに、奥深い静寂の世界を開いてみせたところだ。いわゆる「色即是空」である。「色」の世界から「空」の世界へ深まりは、「動」から「静」への、「物」から「こころ」への深まりだ。

 しかし彼はその宇宙的な静寂の世界をふたたびこの現世に呼び戻す。これが「空即是色」の真実世界である。芭蕉はこれを「往きて還る心」と表現している。

 芭蕉はこの創作上の秘密を西行に学んだのではないか。西行ににとってこの世の真実は「花」であった。そして「花」の発見が、この世に新しいものをもたらした。この「花」ゆえに、この世そのものが美しいのである。芭蕉のいう「見るところ花にあらずといふことなし」という尊い世界がそこに現れる。

<西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし>(笈の小文、1687)

 俳句に限らず、上等の文学は、猥雑で混沌とした現実世界を写しながら、その奥底にもうひとつの真実世界を開いてみせる。芭蕉の名句はこの文学のいとなみを明晰に私たちに示してくれる。芭蕉の俳句が名句たるゆえんをひと言で述べるとすれば、それが「心の世界を開くすぐれた触媒」だということだろう。

 私たちは芭蕉の句に触れることで、それぞれの「心の世界」が開かれる。そしてこうして目覚めた「奥深い精神」を通してまわりを見渡してみるとき、世の中の景物は様子を一変させる。これが私たちおのおのにとっての「蕉風開眼」ということである。昨日は雨の木曽川を散歩しながら、こんなことを考えた。

(今日の一首)

 雨の日に河原に下りて花を見る
 おぼろにかすむみどりさわやか


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