橋本裕の日記
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2007年06月26日(火) 手水鉢の月

 我が家の猫の額ほどの庭に、蛙が何匹か住み着いている。そして夏になると、庭に置いたバケツや水槽の中に頭を出して気持ちよさそうに浮かんでいる。その中の一番大きい蛙を、私たち夫婦は「おやぶん」と呼んでいる。

「おやぶん」は悠然としていて、私たちが近づいてもほとんど逃げようとしない。よほど近づいて指を差し出すと、面倒くさそうに水中にもぐる。そしてそれきり浮かんでこない。水の底でそうやって何時間でもじっとしている。蛙というのは不思議な生き物である。

 バケツや水槽の中には水草が茂り、メダカやドジョウ、タニシが自然繁殖している。妻がときどきエサをやっているようだ。これとは別に室内の水草にもメダカやドジョウがいる。以前にはウナギの子どもやヨシノボリ、カワエビなどがいたが、大方はもとの川や清流に逃がしてやった。寿命が尽きて死んだのもいる。

 かってカワフグを飼っていたが、これは熱帯地方の魚らしく、指を入れると食いついてくるほど獰猛なくせに、寒さには弱かった。ヒーターで水槽をあたためていたが、温かい日が続いたのでヒーターのスイッチを切ったところ、あくる日の朝にははかなく死んでいた。夜中に少し冷えたのがいけなかったようだ。生き物を育てることは大変である。そして、「もののあはれ」ということを、折に触れて感じる。

 手水鉢月をやどして虫の声

 むかし、どこかで拾った句のようにも思うのだが、勝手に自分の句にしてくちずさんでいる。この世のものである手水鉢に、この世を越えた世界の月が宿る。このとき、虫の声までもが、生き生きと聞こえてくる。こうして私たちは「もののあはれ」の奥深い世界へと誘われる。

 手水鉢はもともとは寺社に備えられて、水浴みによって身体の汚れとともに心の罪やけがれを清めるためのものだった。それが茶の湯の影響もあって、いつか民家にも庭の小道具として石灯篭の同じように持ち込まれた。そしてやがて不浄のあとの手洗い鉢として日常的に使われるようになった。

 福井の私の実家にも手水鉢があり、子どもの頃私たちはこれをトイレのあとの手洗い鉢として使っていた。水は手水鉢に落ちる。それを祖母は柄杓で汲んで朝顔など庭の草木に与えていた。祖母が死んで、朝顔を世話をする人もいなくなり、やがて父が死んで家も手放した。手水鉢もとうになくなった。そういえば、あの手水鉢にも蛙が浮かんでいたような気がする。

(今日の一首)

 水甕に蛙がお昼寝うとうとと
 やがて日が暮れ月影浮かぶ


橋本裕 |MAILHomePage

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