橋本裕の日記
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2007年06月12日(火) |
赤はなぜ「赤い」のか |
数日前から、「色覚」についていろいろ考えている。私はひとつのことを考え出すと、あるていど納得できるまで調べたり考えたりしないと気がすまない。そういうわけで、私の日記には同じようなテーマがしばらく続くことが多い。
色覚について、私が以前から不思議に思うのは、なぜ「青」「赤」「黄」の3原色で無限とも思われるすべての色調が得られるかということだ。これは色の世界が3次元空間になっている考えればよいわけだが、なぜ3次元なのかという疑問は残る。
私がこうした疑問に取り付かれたのは高校時代のことだ。その後、大学、大学院で物理学を学び、さらに教師として30年近く生徒たちに理科や数学を教えてきた。その間、このテーマに関係のある様々な書物に眼を通したが、今もってこの問題については未解決である。
ただ、ひとつ分かってきたのは、色調の3次元構造については、3種類の視覚細胞だけではなく、私たちの脳の働きや個人的体験が大きく関わっているということである。さまざまな波長の光を、まさにその「色調」として認識するのは、私たちの「脳細胞」の主体的な活動によるものである。そしてこの分野での研究はまだ緒についたばかりだということだ。
さらにこんな問題もある。私はある波長の光を「赤」として認識する。そして妻もまたおなじ波長の光を「赤」として認識する。しかしよく考えてみれば、私が「赤」と感じている内容と、妻が「赤」と感じている内容が同じものである保障はない。
私と妻が散歩に行き、木曽川の堤で美しい夕日を見たとしよう。私が「夕日が真っ赤に燃えているね」と妻に語りかけ、妻も「本当ね。真っ赤に燃えているみたいね」と答えても、私の見ている夕日の「赤」と、妻の体験している「赤」が同じものだとは限らない。
じつのところ私たちは自分の主体的体験を「客観的」なものだと考えがちだが、それはあくまでも私という一個人の主体的な体験でしかない。そして、<赤はなぜ「赤い」のか>という疑問は、どうしても残る。
(今日の一首)
夕日が空を真っ赤にそめる この夕焼けを君と見ている
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