橋本裕の日記
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2007年05月29日(火) K子への手紙(1)

 K子とはかなりの量の手紙をやりとりした。そこでK子からの手紙を探してみたが、どこにも見当たらない。どこかにしまいこんだか、それともまとめて処分したのだろう。数年前から私は「無一物運動」と称して、身辺整理の最中である。書籍に加え、友人知人からもらった手紙も大方処分した。K子の手紙も処分した可能性がある。

 さいわいなことに、私がK子に出した手紙は何篇かコピーが残っていた。また、日記帳の中にも、その下書きと思われる文章が残されていて、読み返して見ると、当時の記憶がよみがえってくる。あまり、思い出したくはない過去なのだが、残された手紙はK子がずいぶん落ち着いてきたころのもので、手紙の調子も割合のどかである。

 今日はその中から、1984年7月4日の手紙の一部を引用しよう。この手紙は便箋20枚におよぶ大作である。したがってすべてを引用することはできない。引用は冒頭の部分と、最後の部分だけである。

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拝啓。

 お電話をいただき、いろいろと考えてみました。病院であなたが大変苦しんでいる様子を知るにつけ、胸が痛みます。あなたの不幸を少しでも軽くしてあげる知恵が私にあればよいのですが、私自身、人生に迷い、苦しんでいるあわれな一介の人間にすぎません。私の手紙がさらにあなたを迷わせるのではないかと、私は恐れています。

 しかし、あえてこの手紙を差し上げます。あなたがあなた自身の人生の苦闘に勝利するために、わずかでも参考になればと、私はこのことを祈りながら、これを書いています。あなたの心の平安のためにだけではありません。あなたが幸福になることは、私が幸福になることでもあるからです。

 さて、現実的にあなたはいろいろな問題を抱えて苦しんでいて、そこから脱出しようと努力もしているわけですが、その一つ一つの問題について具体的にどうすればよいのか、経験に乏しい私はなかなかあなたを満足させる答えも見出せず、かえってあなたの苛立ちを募らせてしまいました。今回の新しいクリニック先でのトラブルでも、私はあなたにただ「忍耐」をすることをお願いするばかりでした。(略)

 Sクリニックについて、電話では交通費も支給しないようなとこではというあなたの意見でしたが、このことについて、また別の見方もできるのではないでしょうか。人間が薄給に甘んじても働けるとすれば、人間がその仕事に生きがいを持っているときです。高給をエサに人をあつめようとする企業と、むしろ無償のボランティアでまかなわれる事業と、いずれが人間に対して親切といえるでしょうか。

 高給取りの病院の医者と、キリスト教や仏教のボランティア団体の行っているカウンセラーといずれが患者に対して親切であるか、むしろ無償で働く人々こそ、熱意があるのではないでしょうか。金儲けを生きがいとしている人々に、自分の運命をあずけることほど愚かなことはありません。

 キリストは、ある日の午後、10人のライ患者を癒しました。ところがそのうちでキリストに礼を言ったのは、たった一人であると聖書(ルカ伝)は書いています。9人は自分の病が癒されると、一言の礼も言わずに逃げてしまったのです。それでもキリストはそのことで怒ってはいません。もとより自分の行動が愛よりでた無償のものだったからです。

 金のために働いている人々に多くを期待するのは愚かなことです。彼らはただ金に対して義務を果たしているにすぎません。一人ひとりの人間を救うために全生涯をかけ、自分の命まであがなった偉大な人間の思想からこそ、私たちは多くをまなぶべきではないでしょうか。

 あなたが一刻も早く立ち直られることを祈りながら筆をおきます。どうか、病院の先生の指示に従い、先生を信頼して、一刻も早くよくなってください。

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(今日の一首)

 あちこちで蛙がさわぐ散歩道
 なにやらおかしい求愛のうた


橋本裕 |MAILHomePage

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