橋本裕の日記
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私は文学に憧れ、小説など書いていながら、女性の心理というものについてほとんど知らなかった。人を恋することがどんなに苦しくて、そして時には理性を失わせ、自己をも相手をも傷付けずにはおかないか、それがどれほど恐ろしく破壊的なものか、私には何の知識もなかった。
私はただいっとき彼女を所有し、自分の男としての欲望を満たせばそれでよかった。自分を崇拝し、慕ってくれるK子に好感と愛情は感じていたが、それ以上に私を突き動かしたのは、この男の欲情であった。そしてこの男の欲情はそれが満たされてしまうと、次第に薄められていく。そして私は本来の自分に帰って行った。
ところが彼女はそうではなかった。彼女もまた欲情におぼれた。私には女が、とくにK子のような理知的な女が、これほど激しく我を忘れてあられもない表情をたたえながら男を求めるものだということは驚きだった。その欲情の強さは、おそらく私をもはるかに上回り、さらに途方もない深さをたたえていた。
ホテルを出て、私はK子をタクシーで栄まで送った。そこで簡単に朝食をすませて、それから地下鉄でおのおのの家に帰ればよいと思っていた。ところが彼女は、「こんな時間に家には帰れない」という。父親と二人暮らしをしている彼女は、無断で外泊したことを、どう言い訳したらよいか悩んでいる様子だった。そして喫茶店の窓際の席で途方にくれたように泣き出した。
私は仕方なく、ふたたびタクシーを拾い、彼女を私の下宿に連れてきた。タクシーの中でも、彼女は泣いた。私には彼女がホテルでの一夜を境に、まったく別の人格になったとしか思えなかった。
私の薄暗い8畳間の下宿で、私たちはまた自然な成り行きで体をあわせた。私が彼女を求めている間、彼女はやすらかそうな美しい表情をしていた。しかし、私が体を離すと、眉間にしわを寄せ、身悶えるように激しく泣きだした。
私が不審に思って問いただすと、「私はもう、むかしの私ではなくなったの」と答えた。これはあとで分かったことだが、彼女はすでに一つの恋愛を体験していた。彼女はこれに失敗し、おそろしい地獄を味わった。私との交際も、また同じような経過をたどり、悲しい結末になるのではないかと恐れていたようだ。
この不安が、私との交際を通して次第に増幅し、彼女を精神異常の世界に追い立てた。私はそんな彼女を受容できるほどの人格者ではなかった。そして彼女の不安は結果として的中することになった。それは彼女にとっても、私にとっても、ぞっとするほどの厳しい試練に満ちた茨の道であった。
(今日の一首)
北国の海はなつかし遠き日の 空の青さや潮のかをりも
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