橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
何時ごろからだろうか、心が弱ったとき、私は鏡の前に立って、自分の良いところを数え上げ、自画自賛する習慣ができていた。たとえばこんな風に、自分を励ましながら、心のなかでつぶやいてみる。
「私は健康な体と優秀な頭脳を授かった。私は人並み以上の容姿と、性格のよさを持ち、経済的にも不足はない。世の中にはいろいろなハンディを背負いながら、それでもけなげに生きている人たちが大勢いる。あらゆる点で恵まれている私は、ほんとうにしあわせである」
このいささか鼻持ちならない「自画自賛」は、K子に「人でなし」と罵られていたときも、たしかによくきいた。鏡の前に立ち、この呪文を唱えていると、不思議と自信が回復し、元気があふれてくる。
私は今でも、困難な情況におかれて心が沈んだときなど、「自分は何と恵まれた、しあわせな境遇なのだろう」と考えることにしている。ただし、鏡の前には立たないほうがよい。白髪やしみの増えた貧相な自分の顔を前にすると、さすがにこの呪文の効果が薄れかねないからだ。
K子を精神病院に強制入院させることができたのも、私の強運があった。その頃、私はたままた精神病院の院長の長女の家庭教師をしていたからだ。私は家庭教師の折、おやつを運んできた奥さんに、世間話でもするような調子で、K子のことを話した。奥さんは私の話を親身になって聞いてくれた。そして、さっそく、私の苦境を救うべく、院長に働きかけてくれた。
私が精神病院の院長の娘を個人的に教えていたことは、私にとって大きな助けとなったが、K子にとっては、思ってもいない不運ということになろうか。彼女はおかげで白昼堂々、衆人環視のなかで身柄を拘束され、有無を言わさず精神病院に連行されることになった。
しかし、精神病院で彼女は落ち着きを取り戻した。どんな治療が行われたのかは知らないが、彼女の攻撃的な性格は大幅に矯正された。その後20数年間、私はもはや彼女の破滅的な言動や脅しに、以前ほど悩まされることはなくなった。私はときどき病院に面会に行き、彼女と静かに話し合うこともできた。そして電話や手紙のやりとも再開した。私は彼女の人生相談にも応じ、仏教やカーネギーの本をプレゼントしたりした。
私は5年ほど前から年賀状を廃止しているが、アパートで淋しい一人暮らしをしている彼女にだけは書き続けた。それもパソコンは使わず、「手書き」を貫いた。もう大分前から、彼女からの手紙も賀状も届かなくなっていたが、私は去年の暮れにも、自分から彼女に年賀状を送った。しかし、それが今回初めて「宛先不明」ということで戻ってきた。
彼女は私に告げることもなく転居したのだろうか。それとも、もっと重大なことが彼女の身に起こったのだろうか。返された自分の賀状を眺め、彼女の身を案じつつも、どこかに解放感を感じ、30年以上続いた彼女との苦く辛い歴史を思いかえした。
(今日の一首)
雨音を聞きつつしのぶ初めての 女の狂気われの十字架
|