橋本裕の日記
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2007年05月21日(月) 私を救った夜間高校(2)

 結局、私は豊田の新設高校に2年間勤務したあと、テニスで知り合った先輩教師のアドバイスにしたがって、名古屋市内の定時制夜間高校に転勤した。たしかにそこは先輩教師が言うとおり、別天地だった。私はもはや理不尽な規則で管理されなかったし、私も生徒を細かな規則で管理する必要もなくなった。私はここで初めて、自分の良心の自由にしたがって行動することができた。これは実に爽快なことだった。

 生徒も、同僚の教師も、生き生きとしていた。私は当時理科を教えていたが、教材の一つとして、近所に咲いていたタンポポを教室に持って行った。タンポポには在来種と外来種の二種類がある。外来種のセイヨウタンポポが増えつつある。それがどのような場所で、どのようにして増えるのか、実物を見せながら話した。

 このタンポポの授業は生徒たちに好評だった。そしてこの日から、私は「タンポポ先生」と呼ばれるようになった。1年後、最後の授業を終えると、生徒たちが教壇に次々とやってきて、「タンポポ先生、一年間ありがとう」「楽しかったよ」「タンポポ先生、また来年も、教えね」と声をかけてくれた。こんなことは教師になってはじめての経験だった。

 職員室の雰囲気もよかった。和気藹々として、いつも冗談が飛び通っていた、教員が出世競争に明け暮れていて、悪口が飛び交っていた前任校とはまるでちがった。そこでは足のひっぱりあいが横行していた。たとえば、私がうっかり学校の不満を漏らすと、それをすかさず誰かが校長に知らせ、校長から教頭に指示が降り、私は直接の上司である指導部長から「君はこんなことを言ったそうだね」と苦情をいわれた。

 定時制高校では、教師はおたがいに助け合っていた。年2回も宿泊の職員旅行があり、これも愉しみになった。これとは別に、気のあった仲間で、よく旅をした。これは私がその定時制高校から転勤したあと、十数年を経た今も続いている。こうした仲間の教師や生徒たちに恵まれて、「教師を辞めたい」と思いつめていた私は、「これなら教員を一生続けてもよい」と思うようになった。

 もし私がこの夜間高校に出合わなかったら、私は教師として挫折していただろう。自分には教師の才能も資格もないのだと思い、絶望して転職していたかもしれない。ところが夜間高校へ来て、私は自信が持てるようになった。そして、「教師という仕事も捨てたものではないぞ」と将来に希望がわいてきた。

 もちろん、これは昼間の高校と比べて、夜間高校の仕事がやさしいということではない。実際、私は夜間高校で、さまざまな辛い経験もした。私のクラスには暴走族の幹部もいたし、鑑別所や裁判所にも足をはこばなければならなかった。職員室でワイシャツをひきちぎられるという暴行を受けたこともある。しかし、そうした苦労や困難はむしろ私を奮い立たせてくれた。私は再び「教師を辞めたい」と弱音をはくことはなかった。

 私は8年間、その夜間高校に勤めたあと、ふたたび全日制の昼の勤務に戻った。二人の娘が小学生になり、夕食を家族で囲みたいと思ったからだ。そして、次女が高校を卒業した5年前に、再び定時制夜間高校に転勤希望を出した。二年間この希望は無視されたが、ようやく3度目の正直で二年前に実現した。

 おどろいたことに、私が赴任することになったのは、二十数年前に私が赴いた、おなじ名古屋市内の定時制夜間高校だった。私に教師としての自覚を与え、私を一人前の教師に育ててくれたなつかしい夜間高校である。こうして私は定年を前にして、ふたたび私の「ふるさと」に里帰りすることができた。

(今日の一首)

 タンポポを河原に摘んだ若き日の
 思い出のなかそよかぜが吹く


橋本裕 |MAILHomePage

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