橋本裕の日記
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2007年05月20日(日) |
私を救った夜間高校(1) |
教師になって3年目、私は豊田市にある新設高校に転勤になった。大変規律のきびしい学校だった。生徒は校門を入るとき、校舎の上に掲げられてある「日の丸」に敬礼する。私たち教員も立ち止まって、この旗の方に敬礼しなければならない。こうした敬礼は学校のいたるところで行われた。
たとえば校庭にも「三旗掲揚塔」があり、国旗、県旗、校旗が日直の生徒と教師の手で毎朝掲揚された。そして私がその運営を担当する係りに任じられた。毎朝、しっかり三旗が掲揚されているか監督しなければならない。豪雨のときは中止されるが、途中で雨が上がると、日直の先生に急遽生徒を招集してもらって掲揚してもらう。
一度これを忘れて、校長に職員室で「旗はどうなっている」と叱られたことがあった。校長は私を直接叱らないで、教頭を叱る。そして、教頭が指導部長を叱り、指導部長が私を叱る。私は日直の先生のところに行って「しっかりやっていただかないと困りますよ」と苦情を述べるわけだ。こういう上下関係ができていた。たまに校長が直接叱るときがあったが、それは教師がこうした命令系統を無視したときだ。
たとえば、社会科のM先生は職員朝礼の席で、「M、おまえはなぜ物を机の上に放置して帰るのだ。教頭の命令は私の命令だ」と叱られた。彼は国語辞典を机の上に一冊置いて帰った。学校のきまりには、机上は一切物を置いて帰ってはいけないということになっていた。だから机の上が空になっていたら、「ああこの先生は帰られたのだ」と一目瞭然である。私も「なんでそんなばかな規則にしたがわなければならないのか」と疑問を持っていたが、M先生のように行動に表す勇気はなかった。
校長に叱られたあとも、Mさんの辞書置き行動はしばらく続いた。教頭が毎日その辞書を彼の机の下に置く。私はその様子を見て、「なんともばかばかしいことだ」とため息が出た。こうした不愉快な事がこの学校にはたくさんあった。
たとえば生徒は昇降口の下足箱に靴を入れるとき、その向きが指定されていた。毎朝、生徒指導部の担当の教員がこれをチェックし、違反があると、名評にチェックして担任に連絡が入る。私のクラスの生徒の一人がこの違反の常習者だった。私が注意しても、「どうして靴の向きが反対ではいけないのですか」と聴く耳を持たない。私は「学校の規則だから」というしかない。私自身、なぜこんな規則が必要なのか説明ができない。
彼はとうとう職員室に呼び出され、指導部長にこっぴどく叱られた。ところが、「どうしてこんな規則があるのか、納得できません」と動じる風がない。指導部長は怒り出して、「自分で分かるまで、担任のところで正座しておれ」と私に彼を押し付けてきた。私の足元で正座する彼を見て、「もう、いいかげんに降参したらどうだ」と進めてきたが、生徒も意固地になっていた。「困ったな」と思いながら、こうした学校のあり方に、私はますます疑問を募らせた。
この頃、女生徒を中心に「過呼吸」がはやりだした。授業中に突然、呼吸が早くなり、体を硬直させて倒れる。そんな生徒が続出するので、タンカーが常設してある教室まで現れた。下足の入れ方まで神経質にチェックされ、授業中にカバンの中を総点検されたりする。もちろん授業中、私語は厳禁である。常に緊張を強いられる学校生活に身心が耐え切れなくなるわけだ。
そうした中で、この学校にきて親しくなった社会科のS先生まで学校にこなくなった。どうやらこの息苦しさに耐えられなくなって、精神的におかしくなったようだった。私も学校に行くのがだんだん憂鬱になり、「教師を辞めたい」という思いが募ってきた。この思いを私はテニス仲間の先輩の教師に打ち明けた。
「せっかく教師になったんだ。学校にもいろいろあるから、そう短気をおこさないほうがいい」 「しかし、どうにも、もう限界のようだ。病気になりそうなんだ」 「だったら、夜間学校に転勤しろ。別天地だぞ」
彼は名古屋市内の定時制夜間高校の教師をしていた。そんな学校があることは知っていたが、自分の勤務先としてそうした選択肢は今まで浮かばなかった。問題の多い生徒がいるのではないか。それに夜の仕事は敬遠したい気分があった。しかし、制服さえもなく、自由そのものだという夜間学校に、私の気持が動いた。そんな学校があるのなら、そこでもうすこし教師を続けてみてもいいと思った。(続く)
(今日の一首)
馬酔木咲く水辺を行けばなつかしき 君の声する夢から覚めても
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