橋本裕の日記
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2007年05月08日(火) 死ぬことの準備

 人はいろいろな理由で死ぬ。事故死、殺人、自殺、老衰死、飢餓による衰弱死、戦死、ときには処刑死もある。しかし、一番多いのは癌や心臓病、脳溢血などによる病死であろう。病死にもゆるやかな死と、突然の死がある。いずれにせよ人間は死を免れない。昨日紹介した「自然死ハンドブック」には次のような一節がある。

<In the world of nature, death provides a service because it makes room in an ecological niche for a young one. People are part of nature, too, and when people die, they make room for more people>

(自然の世界では、死は若い世代へのサービスである。それは若い世代に生きる場所を譲ることを意味する。人間もまた生物界の一員であり、人間の死も同じような意味をもっている、それは残された多くの人々への役に立つ貢献なのだ)

 今日のように人口が増え、資源問題が深刻になる時代にはとくに、このことはわかりやすい。自らの死をこのように社会や自然の中に位置づけることができれば、私たちは個人の死について過度に恐れることもなく、おおらかな気持で死に望むことができるのではないだろうか。

 60歳を超えればもういつ死が訪れても不思議ではない。私たちはなるべく早いうちに、その準備をしなければならない。そうすれば、いざそれが目前に迫ったとき、うろたえなくてすむ。そして死ぬまでの時間を、有意義なものにすることもできる。

 心の準備ができていれば、不慮の事故でさえも、もはや不慮ではない。ガンジーは暗殺されたが、彼は放たれた弾丸に対して、とっさに神の名前をつぶやいたという。私たちに不慮の死に見えても、彼にあっては覚悟の死であった。それは日頃から彼が死の問題を考え、心の準備をしていたからだろう。

 外科医・ホスピス医として2000人以上の癌患者の死を看取り、自らも癌体験をもっている小野寺時夫医師は、「がんのウソと真実」(中公新書ラクレ)のなかで、「人は生きたように死んでいく」と書いている。

 死に面して、人は人格まで変わることはない。急に人格者になったり、聖人になることはなく、むしろ人は「それまで生きてきた線上で途切れる」ことになる。それだからこそ、平素からの生き方が大切だという。

 利己的な生き方が身にしみている人は、結局自らの利己主義から逃れられず、自らの生に執着して、悲しい終末を迎えることになる。つまり、死を考えることは、「いかに善く生きるか」を考えることである。死は生の延長であり、美しく生きたものが美しく死ぬということらしい。

(今日の一首)

 わが畑で妻の育てたさくらんぼ
 たった五つをみなで味わう

 3年目にして、小さなさくらんぼが実った。たった5つだ。私は妻から1個もらって食べた。口の中にやわらかい甘味が広がった。私の植えた柿木も3年目である。こちらの方も元気に若葉を茂らせている。しかし、実がなるのはまだまだ先だ。


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