橋本裕の日記
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2007年05月06日(日) |
安楽死としての絶食死 |
私は「絶食死」を死の理想形と考えている。動物は食物が食べられなければ死ななければならない。絶食して死ぬことは自然界ではありふれたことだ。しかし「絶食死」をネットで調べてみると、「悲惨な絶食死」「みじめな絶食死」と書かれている。これは絶食死を惨めで悲惨なものにしている現実が存在するからだ。
たとえば東京都庁のお膝元の新宿区だけでも年間60人以上の人が「孤独死」をしているが、その中に栄養失調で死んでいく餓死者がいる。餓死もまた絶食死である。世界中では毎年何百万という人々が餓死しているわけで、これでは「みじめな絶食死」と書かれてもやむをえない。
先の大戦でも、日本軍人が何十万と餓死した。ガダルカナル島は「餓島」とまでよばれたくらいだ。戦死の大部分が餓死ではないかといわれているが、彼らは食を断たれてやむなく死んでいった。英霊だとおだてられて靖国神社に祭られてみても、本人や遺族にとってこれは悲惨というしかない。
ただし、人間は死ぬ瞬間は肉体的には見かけほどは苦しくはないようだ。それは苦痛がある限界点を越えると、それを緩和するシステムができあがっているからだ。具体的にはエンドルフィンというモルヒネに似た脳内物質が分泌されるのだという。
最近小野寺時夫さんの「がんのウソと真実」(中公新書)を読んだが、そこに癌患者の末期の様子が具体的に書かれている。がん患者の場合はかなり苦しむこともあるようだ。しかし、絶食死は自然死の一部と言ってもよい。自然死である以上、それほど苦痛はともなわないのではないかと思っている。
オランダでは医者が薬物で患者に安らかな死を与える「安楽死」が認められている。しかし、日本を始め多くの国は、医療行為としての安楽死は認めていない。これは安楽死を認めると、多くの人々が安易にこれに走るのではないかと危惧されるためだろう。また国家権力による「安楽死」強制はもっと恐ろしい。オランダのように医療・福祉制度が充実し、政治的にも成熟した市民社会であれば大丈夫だろうが、日本やアメリカではむつかしいだろう。
となれば、「安楽死」を自分で演出しなければならないわけで、そのためには「絶食」が最適ではないかと思っている。オランダでも「安楽死」が認められていないとき、病院で「絶食」して死んでいった人がいた。私は病院で死のうとは思わないが、やむをえなければ病院で絶食して死んでもよいと思っている。
(今日の一首) 雨蛙葉っぱの上でみどりいろ 風にゆられて眼をとじている
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