橋本裕の日記
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今日と明日は父と祖母の17回忌で、妻や二人の娘を連れて福井の実家に帰る。私は葬式や法事は苦手なのだが、長男として父や祖母の17回忌は欠席するわけにはいかない。福井の家に10時までに着くためには、我が家を7時までには出なければならない。せっかくの連休だが、朝から何だか慌しい。
しかし、一家4人の旅行は久しぶりである。母も孫娘の顔が揃うのでよろこぶだろう。それに法事の席には父や祖母の法事でもなければ会うことができない親戚の顔もそろう。坊さんの説教や読経は苦手だが、これは大きな楽しみである。
父と祖母は16年前に死んだ。父が死んでその葬式が終わったあくる日に、祖母が死んだ。父が祖母を誘って、一緒に三途の川を越えていったのではないかと、私たちは祖母の通夜の席で語り合った。こう書くと父と祖母は仲が良かったようだが、実際はそうでもなかった。
母方の祖母は父が自分の長女と結婚することに反対だった。父もそのことを知っていて、祖母には最初からよい感情を持っていなかった。いつだったか、若狭に住んでいた頃、祖母が福井から遊びに来たとき、父が当時小学生だった私に辛く当たった。これを見ていた祖母が、「私が来たので、子どもに当たっているのかしら」と、母に申し分けなさそうに言ったそうだ。
父はいつも私に辛く当たっていたから、これは祖母の誤解だ。小学2年生のとき若狭に転校してきて、「教科書は同級生を探して、自分で写してきなさい」と言われて途方にくれた。これを皮切りにさまざまな辛い思い出がある。祖母が来たときも私は夜道を使いに出された。そして、お金を落としてしまった。
たいした額ではないが、父はそれを探しに行けという。小学生2年生の私は田舎道を懐中電灯を持って探し回ったが、小銭は見つからない。泣き泣き帰ってきた私を見て、祖母も途方にくれたのだろう。
中学生、高校生の頃は山仕事に駆り出され、休みがなかった。私は父を何という鬼のような親だろうと恨んだものである。その反動で、大学生の私は父と衝突した。ときにはとっくみあいになることもあった。
しかし、父はその後、少しずつ温和になった。癌を発病したあとは仏様のようにやさしくなった。祖母もおなじで、二人とも死顔がおだやかだった。私は子ども時代の父の厳しさも、いまは愛情だと考えている。父のスパルタ教育のおかげで、私は一人前になることができたのだから。
仲の悪かった父と祖母だが、父は病院へ寝たきりの祖母を見舞っていたし、祖母にも家族の一員としてそれなりの愛情を持っていたようだ。「そろそろ、一緒に行かないかね」と、父が祖母を誘い、祖母もこころよく応じて、丑年うまれの父と、鼠年うまれの祖母が、仲良く二人して三途の川を渡って行ったのではないか。17回忌を前にして、再びそんな想像をしてみた。
(今日の一首)
父が逝き祖母も続いて二人して 仲良くわたる三途の河原
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