橋本裕の日記
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戦争中、多くの作家が従軍記事を書いた。戦争というものは悲惨なものだ。作家の冷静な目がその現実をとらえ、これを生々しく描写してもよさそうだが、もともと戦争に協力するためである。作家たちはその文才を駆使して、戦争を賛美する華麗な文章を書き、これを読んだ人々もまた、戦争へと鼓舞された。
吉川英治、高村光太郎、佐藤春夫、北原白秋、西条八十、高見順、阿部知二からサトウ・ハチローまで、戦争翼賛的な作品を発表した作家はその数を知らない。たとえば、南京陥落直後の昭和12年12月13日の朝日新聞には、吉川英治が「南京陥落に寄す、われらの将来の使命に任ず」、萩原朔太郎は「南京陥落の日に」を寄稿している。それがどんな調子のものだったか、北原白秋の「大東亜戦争小国民詩集」から「言葉」という詩の冒頭を引いておこう。
「轟沈」といふ言葉を聞いた時、 僕のたましひは爆発した。 「自爆」といふ言葉を聞いた時 僕の心臓は一塊の火となつて落ちて行つた。 何とすがすがしい一本の「雷跡」よ、 ああ、「戡定」はボルネオの大太鼓の音で終止した・・・
しかし、例外はある。昭和13年二月下旬のある朝、石川達三は私服の特高に寝込みを襲われ、警察へと連行された。警察で調書がとられ、起訴された。石川は武漢作戦に林芙美子たちと一緒に従軍し、「生きている兵隊」を「中央公論」の3月号に書いた。
<「えい!」一瞬にして青年の叫びは止み、野づらはしんとした静かな夕景色になった。首は落ちなかったが傷は充分に深かった。彼の体が倒れる前にがぶがぶと血が肩にあふれて来た>
<近藤一等兵は拳銃を左手に持ちかえると腰の短剣を抜いて裸の女の上にのっそりと跨った。女は眼を閉じていた。彼は物も言わずに右手の短剣を力限りに女の乳房の下に突き立てた。白い肉体はほとんどはね上がるようにがくりと動いた>
こういう描写が軍部の忌憚に触れた。これによって、石川達三は禁固4ケ月(執行猶予3年)の判決を受けた。また「中央公論」の編集長・雨宮庸蔵も同じ判決を受け、責任をとって退社した。じつはこのおなじ号に、谷崎潤一郎の連載小説「細雪」の2回目が掲載されていた。これも問題になり、連載が中止になった。
さらに4年後の昭和17年(1942年)に横浜事件が起こっている。当局は「改造」に掲載された論文「世界史の動向と日本」が共産主義的で、ソ連を賛美し「政府のアジア政策を批判するもの」などとして「改造」を発売頒布禁止処分にした。そして、捜査中に見つかった出版記念会の写真を、当局は日本共産党再結成の謀議しているものだと断定し、改造社と中央公論社をはじめ、朝日新聞社、岩波書店など所属する関係者約60人を次々に検挙した。
「改造」や「中央公論」は廃刊になり、このとき逮捕された被疑者を神奈川県警特別高等警察(特高)は革や竹刀で殴打するなど激しい拷問を行い、4人が獄死した。この事件は終戦直後の8月、9月に横浜地裁で判決が言い渡され、3人の裁判官は当時まだ廃止されていなかった治安維持法を持ち出して約30人に執行猶予つきの有罪判決を下した。ただし、GHQによる戦争犯罪訴追を恐れた政府関係者によって当時の公判記録は全て焼却され、残っていないという。
こうした状況下でも、多くの作家たちは生活のために書かなければならない。たとえば石川達三は「生きている兵隊」が有罪判決を受けた後、すぐに「武漢作戦」を書いた。ここで彼は一転して生き生きと躍動する帝国軍人の姿を描いている。そして彼はやがて日本文学報告会実践部長の要職につき、こんな文章を書いた。
<極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて国家の宣伝機関となり政府のお先棒をかつぐことになっても構わないと思ふ。さういふ小説は芸術ではないと言はれるかも知れない。しかし芸術は第二次的問題だ。先ず何を如何に書くかといふ問題であって、いかに巧みにいかにリアルに書くかといふ事はその次の考慮である。私たちが宣伝小説家になることに悲しみを感じる必要はないと思ふ。宣伝に徹すればいいのだ>(「実践の場合」文芸1943年12月号)
戦時中にこうした戦争協力の強力な発言を公にしていた石川達三だが、敗戦後はまた主張を一変させる。「風にそよぐ葦」の中で、彼はこう書いている。
<近衛が人望を失ったのは、開戦の決意をなし得なかったからである。十月、十一月、国民はすべて開戦論者であった。東亜共栄圏はかくして出来上がるであろう。美しい虹だった! 青年たち、少年たち、婦人に至るまで英米を打倒することの美しさにあこがれていた。勝った時にはみんなが軍国主義者になってしまう。もしも敗けたらみんな反戦主義者になるだろう。それが庶民というものだ>
石川はたしかに「生きている兵隊」で当局から告発され、有罪判決を受けている。しかし、その後は、進んで戦争に協力し、宣伝部隊のなかで枢要な地位をしめていた。戦後の石川はこのことにほおかむりしている。
そればかりか、悪いのは軍部であり、その宣伝に踊らされた庶民であるという。自由主義を奉じていた良心的な出版社や作家・知識人たちは、そうした巨大な流れに呑み込まれ、抵抗したものの、圧倒的な力の前に破れた犠牲者だという。しかし、これは少し虫の良い言いぐさではないだろうか。
(今日の一首)
勝ち負けのこの世にあってさわやかな 泉はあふれ人はほほえむ
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