橋本裕の日記
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「口語訳源氏物語」の成功に気をよくしたせいかどうか知らないが、谷崎潤一郎は中央公論に、昭和18年の新年号から隔月で、長編小説「細雪」の連載を始める。「細雪」はこんな書き出しで始まっている。
<「こいさん、頼むわ。−」 鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長橋袴姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、「雪子ちゃん下で何してる」と、幸子はきいた。「悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」なるほど、階下で練習曲の音がしているのは、雪子が先に身支度をしてしまったところで悦子に掴まって、稽古を見てやっているのであろう。>
大阪船場の古いのれんを誇る蒔岡家の四姉妹(鶴子、幸子、雪子、妙子)、その中でも美しい雪子のお見合い話などが、優雅な四季おりおりの風物を交えながら優雅に描かれている。昭和10年代の関西の上流社会の生活を生き生きと伝える風俗小説と言ってよい。
小説の連載が始まった昭和18年にはガダルカナルでは2万5千人もの戦死者・餓死者が出ていた。5月にはアッツ島で日本軍守備隊2千5百人が玉砕している。しかし、この小説にはほとんど戦争の影が落ちていない。蒔岡家の四姉妹は、この戦時下をものともせず、美しく着飾って物見遊山にあけくれている。
姉妹たちは南禅寺の瓢亭で夜食を食べ、都踊りを見物し、祇園の夜桜を見る。あくる日は嵯峨から嵐山へ行き、中ノ島の掛け茶屋で弁当を食べ、それから市中に引き返して、こんどは平安神宮の桜を眺める。芝居見物をし、オリエンタルホテルで食事をするなど、戦時下の庶民の生活からは考えられない優雅さである。源氏物語の現代版とでもいうべき「もののあはれ」にあふれた小説である。
この小説も読者には好意的に迎えられた。しかし、さすがに当局は見逃しはしなかった。4月2日、中央公論の畑中編集長は陸軍報道部に呼び出された。そして、「決戦段階たる現下の諸要請よりみて、或いは好ましからざる影響あるやを省み、この点遺憾に耐えず」ということで、連載中止になった。もっとも谷崎は小説を書き続けた。中央公論社も毎月決まった稿料を払い続けたのだという。
中央公論はすでに昭和17年に社員が思想弾圧を受け、死者を出していた。その後も何かと弾圧は続き、19年7月にはとうとう情報局から自発的廃業を申し渡された。しかし、敗戦後、すぐに再建され、21年10月に「細雪上巻」を発売する。これがベストセラーになった。そして続編が「婦人公論」に連載された。
連載の舞台が「中央公論」ではなく、どちらかというと格下の「婦人公論」だったのは、戦後さらに急進的になった編集部が、ブルジョア趣味に満ちたこの小説をあまり評価しなかったためらしい。しかし、「細雪」はよく売れた。上中下をまとめた定価350円の縮刷版は、発売されるとたちまち20万部を売りつくしたという。戦時中、戦後の窮乏時代であればこそ、庶民は谷崎の描く夢のような美しい世界にあこがれたのかも知れない。
なお、雪子のモデルは谷崎の妻(松子)の妹の重子で、彼女はいったんは結婚したが、数年で夫をなくし、谷崎家でくらしたという。晩年の谷崎の旺盛な創作は、彼が再婚して御寮人と仰ぎ、その美しさの前に跪拝した松子をはじめ、妻の妹たち(重子、信子)や妻の連れ子の美しい娘(恵美子)に囲まれ、彼女ら美神たちと身近に暮らす心の華やぎがもたらしたものだろう。まさに幸福な作家であった。
(今日の一首)
はかなげで美しきもの空わたる 七色の虹かそけき葉音
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