橋本裕の日記
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第二次大戦中は国家総動員体制が敷かれ、国民は有無を言わさす戦争に協力させられた、ということになっている。私はこれに少し異論がある。なぜなら多くの国民は「協力させられた」のではなく、進んで「協力した」というのが本当のところらしいからだ。これは政界や教育界のみならず、ジャーナリズムや文壇にもあてはまる。
戦後、ジャーナリストや文壇人は、軍部によって強制的に戦争に駆り立てられたとして戦争責任を逃れた。しかし、じつのところ、誰にもまして戦争に協力的だったのは彼らである。その動かぬ証拠が国会図書館に眠っている。そこに二、三日通い、戦時中に発刊された新聞や雑誌を少しでも読んでみれば、このことは明らかだ。
もちろん、戦争中も熱に浮かされず、戦争に批判的だった人々はいないことはない。しかし、こうした人々はほんの一握りだった。多くの人々が軍部の中国大陸進出をよろこび、太平洋戦争の開戦を拍手喝采して迎えた。戦争に勝てば国威が発揚され、自分たちの生活がよくなると誰しもが思ったのである。
戦争に批判的だった少数派の人々も、日本が負ければよいと考える人はほとんどいなかった。「無茶なことをして、きっと大変なことになるぞ」と腹の中で思っていても、「もし、万が一勝てたら、うれしい」と考える。実際、批判的だった人たちも、真珠湾攻撃が成功したと聞かされて、主戦論に走った人はいくらもいる。文藝春秋社の菊池寛などもその口である。
日中戦争によって朝日や読売、毎日などの中央紙は爆発的に売れ行きを伸ばした。多くの雑誌も同じである。社長以下戦争協力に走った「文藝春秋」もそうだが、こうした時流に最後まで乗り切れなかった雑誌もあった。たとえば「中央公論」は何度か発行停止処分をうけたあげく、とうとう自主的廃業に追い込まれている。しかし、これはもっとあとの、太平洋戦争末期の話である。
戦争中は文壇も戦争に大いに協力した。耽美派作家として戦争からもっとも遠い世界にいる谷崎潤一郎でさえも戦争遂行に協力する日本文学報国会の小説部門の名誉会員だった。もっとも、日本芸術院の会員であり、すでに大家の風があった彼の場合はまだ余裕があった。彼は日中戦争が始まると、「源氏物語」の口語訳に没頭する。
これはじつは、中央公論社の嶋中雄作が谷崎に持ち込んだ話だという。嶋中がどういう意図で谷崎に持ちかけたのかは知らないが、国が命運をかけて軍隊を大陸に展開しているとき、「源氏物語」の口語訳というのは浮世離れをしている。しかも恐れ多くも宮中を舞台にした「姦通小説」である。こんなきわどいものを出版して、当局ににらまれる心配はないのだろうか。
谷崎も嶋中もこの点は心得ていた。国体明徴派の国文学者、山田孝雄博士の校正を受け、さらに光源氏と藤壺の情事は省き、他の部分も描写を曖昧にした。こうして谷崎は日中戦争の最中の昭和10年9月にこれに着手し、昭和13年9月に完成している。
中央公論はさっそくこれを本にして出版した。これがおおいに売れた。5万部売れれば成功だが、18万部も売れたのだという。戦時下でこれだけ愛読されたということは、国民の心もまだまだ戦争一色に染め上げられていなかったようだ。
(参考文献) 「婦人公論にみる昭和文芸史」 森まゆみ 中公新書ラクレ
(今日の一首)
はじめての娘の月給ありがたし うなぎを奢られ親はうれしい
この4月に婦人警官になった次女が、一昨日の土曜日に初月給を手にして合宿から帰ってきた。警察学校にいる半年間は、5万円しか現金がもらえず、あとは強制的に貯金だそうである。その5万円のなかから寮の食事代を払ったら、2万円しか手元に残らない。しかし、それで私たち夫婦にうなぎの蒲焼をおごってくれた。私たちはついでに烏賊の塩焼きも食べた。行きつけの大衆食堂でのささやかな贅沢だったが、とってもうれしい食事会だった。
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