橋本裕の日記
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小さい頃、だれしもお風呂の中で、数を数えさせられたのではないだろうか。私も二人の娘を風呂に入れながら、「100まで数えたら、上がろうね」などと湯船のなかで数えさせたものだ。二人とも「いち、にい、さん、・・・」と、可愛い声を張り上げた。
私の場合、はっきり記憶に残っているのは、福井の東別院の大仏さまの前で、父に「九九を言ってごらん」と言われて、一所懸命に暗誦したことだ。福井に帰省して大仏さまの前を通るとき、私はいつもそのまえに足を止め、手を合わせることにしている。大仏さまはすべてをごらんになっている。そのおだやかな顔を眺めながら、私はしばしば在りし日のなつかしい思い出を回想する。
それはともかく、数を唱えることを覚えた私たちは、やがて「ものを数ぞえる」ことができるようになる。そして、「リンゴは何個ありますか」と訊かれて、「3個あります」と答える。リンゴだけではなく、ミカンも犬や猫も、空の星でさえ数えることができる。これはとてもすばらしいことだ。
おそらく犬や猫も、おぼろげな数の概念は持っているのかもしれない。たとえば、リンゴを3個見せると、「ワン、ワン、ワン」と三回吼えるというぐあいに、犬やカラスでも訓練をすれば、ものを数えることができるという人もいる。しかし、3回吼え。3回鳴いたからと言って、ほんとうに犬やカラスが「リンゴを数えている」のか疑問である。
小さな子どもの場合でも、「数を暗誦」できたからといって、それでただちに、「ものを数える」ということができるわけではない。この二つはじつは別のことがらである。この二つの間には、思考の飛躍がある。そしてこの飛躍を可能にするのは、私たちが持っている「ものごとを抽象化する能力」である。
ここに3個のリンゴと、3個のミカンがある。これをみて、私たちはこの二つのもののあつまりの中に、何か等しいことがらが隠れ潜んでいることに気づく。この「等しいことがら」が「数」という概念を作り出す。こうした抽象化する能力によって、私たちの「ものを数える」という知的な行動が可能になる。
こうした抽象する能力は、私たちの先祖が「数」を発明したときに不可欠なものだった。おそらく何万年もかけて人類はこの能力を発展させ、ついに「数」を発明し、「ものを数える」という高度な知性を獲得したのだろう。それは私たちが「言葉」というものを獲得する過程とも分かちがたく結びついている。このことについて、明日の日記で、もう少しくわしく述べてみよう。
(今日の一首)
よきところ数えてみればしあわせが あふれてくるよ今日も青空
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