橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
幸せになるのに何が必要か。健康やお金、友人などいろいろ思い浮かぶが、じつはもっと根本的なものがある。それは人生を「楽しむ力」である。たとえば旅に行く。同じところに行っても、「つまらなかった」という人と、「面白かった」という人がいる。人生の旅も同じで、同じような境遇にあっても、楽しいと感じる人とつまらないと感じる人がいる。
人生を楽しく、意欲的に生きようと思ったら、「楽しむ能力」を養う必要がある。たとえば散歩に出て、空を鳶が飛んでいるのを見て、ああ面白いと感じる。散歩から帰り、水を一杯飲んで、ああうまいと思う。こういう感性を養っておけば、人生に退屈するということはない。
人生を楽しむ能力は、学校では育たない。むしろ学校は「人生を楽しむ力」を破壊することが多い。それは教師たちが生徒を他人と比較して競争させるからだ。これでは自然や社会に関心がある子どもたちも、学校で理科や社会の勉強をしているうちに、かえって世の中の出来事に興味をなくす。
そしてそうした子どもたちが赴くのは自己中心的な狭い欲望の世界である。現実の世界で傷つけられた自己を補償するために、ゲームの世界で敵を倒し、勝利感を味わう。こうした子どの現状を見て、親は子どもに勉強しなさいといいながら、本人もじつは勉強嫌いだったりする。
教師もじつのところ、自分が教えている教科にさえ興味をもてない教師が多い。いまさら勉強しても、給料が上がるわけではない。彼自身勉強するのは試験でいい点数をとるためだと割り切っている。この点は親とあまりかわらない。
学問ほど面白いものはない。しかし、多くの親も教師も彼自身が受けてきた受験教育で、この面白さを感じる能力を破壊されている。人生を楽しむ道具である学問が、かえって子どもたちを苦しめる拷問の道具になっている。そしてこのことにあまり気づいていない。これは残念なことである。
それでも学校教育が「人生を楽しむ能力」を完全に破壊することはない。学校教育は万能ではないし、教師も全能ではないからだ。学校に完全に適応した優等生は別だが、多くの人間の中で本来の能力は生きながらえている。
そういう人たちは、学校を卒業してから、学問の面白さに目覚めたりする。試験も成績も関係ないのに、自然科学や社会科学の本を読みはじめたり、古典文学を学びはじめたりする。そして、学校では死ぬほど退屈に感じられた学問が、とても輝いていて面白いものだと気づく。
もっともそうした人は一部かもしれない。社会で生きていくうちに、人々は営業成績や収入で競争させられ、さらにはコマーシャルの餌食になって消費中毒になる。この結果、さらに自己中心的になって視野が狭くなり、人生をおおらかに楽しむ能力はますます破壊されることが多い。
こうして日本は自殺大国になってしまった。学校でいじめが蔓延し、社会でも格差が広がり、強者による弱者いじめや、さらに陰惨な弱者による弱者いじめが横行している。どうしてこうなったのか。私は日本人が経済優先に走り、しだいに精神的なゆとりを失い、「人生を楽しむ能力」を減退させたからではないかと考えている。
こういした社会を変えたいものだ。もっと楽しく、人間が自由にのびのびと生きることができる社会にしたい。そのために何が必要か。それは多くの人々に、自らの中に眠っている「人生を楽しむ力」に気づいてもらうことである。自分の人生を他人の手に預けてはいけない。人生は自分自身で意欲し、おおらかに楽しむのがよい。
(今日の一首)
たのしみは小鳥とともに目を覚まし 生きる意欲がよみがえるとき
たとえ逆境にあっても、笑顔で人生を楽しみたい。逆境に安住するのではなく、これを変える事に生きがいを見出せばよい。人生は一生勉強、この志を持って、意欲的に生きていきたい。
|