橋本裕の日記
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2007年03月23日(金) |
至誠にして動かざる者はなし |
良寛さんが好んだ「愛語よく回天の力あるを学すべきなり」(正法眼蔵)という道元の言葉と並んで、私が忘れられないのは、「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」という孟子の言葉だ。これは私が尊敬している吉田松陰が信条として大切にしていた言葉でもある。
松陰は安政6年(1859年)10月26日に江戸小伝馬上町(現東京都中央区十思公園)の牢内で遺書「留魂録」を書き上げた。その翌日、死刑判決を受け、すぐに処刑されている。享年三十歳だった。「留魂録」のなかで、とくに私の好きな一節を引用しよう。原文、現代語訳ともに、「吉田松陰 留魂録」(古川薫、講談社学術文庫)の借用である。
<十歳にして死する者は十歳中自ずから四時あり。二十は自ずから二十の四時あり。三十は自ずから三十の四時あり>
(私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきことかも知れない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。(略)
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した栗の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい)
松陰は「留魂録」を二部書いた。一部は牢名主沼崎吉五郎に預けられた。松蔭は牢にいる間も、罪人を相手に「孟子」を説き続けた。そして多くの罪人たちがこれを傾聴した。松陰は高杉晋作に与えた手紙のなかでも、「獄中の交わりは、総じて父子兄弟の如し」と書いている。
とくに牢名主の沼崎吉五郎は殺人容疑で獄に繋がれていたが、入牢してきた松蔭を尊敬し、親身になって世話をするようになり、自から懇願して「孟子」の講義も受けた。松蔭もまた彼を同志として信頼した。そして、「自分は別に一本を故郷に送るが無事に着くかどうか危ぶまれる。それでこれを汝に託す。汝、出獄の日、この遺書を長州人に渡してもらいたい」と彼に遺書を託すまでになった。
もう一部は松陰の遺品とともに、ひそかに牢から持ち出され、門下生の手にわたった。これも牢のしきたりに詳しい牢名主沼崎吉五郎のはからいだったと思われる。松陰の処刑後「留魂録」を読んだ高杉晋作は、「この仇を討たずにおかない」と決意したという。古川薫さんは「吉田松陰 留魂録」にこう書いている。
<「留魂録」は門下生のあいだでひっそりと回覧され、写本となって松門の志士たちの聖書ともなった。その諄々と教え諭す語調は、たしかに死の瞬間まで教師であろうとする松陰の遺書といえた。彼は種を植えつけて処刑された。先駆者の役割は、すでに果たされており、死そのものが、最後の教訓として門下生を奮い立たせたのである>
残念なことに、この「留魂録」は門下生たちに回覧されている間に遺失してしまった。ところが、明治9年、神奈川県の権令だった野村靖の前に、一人のみすぼらしい老人が、「私は吉田先生と獄で同じだった沼崎吉五郎です」と名乗り出た。そして、「留魂録」を差し出した。長州の出身の野村靖は筆跡を見て、まぎれもない松陰の書だとわかった。
沼崎吉五郎は松陰の処刑後、三宅島に流された。そのとき松陰から託された「留魂録」を隠し持ち、肌身につけて離さなかった。やがて江戸幕府は倒れ、世の中はすっかり変わった。許されて本土に帰ったときも、「留魂録」は持っていた。彼は松陰との約束を思い出し、神奈川県の権令が長州人だと知って、これを差し出したのだという。
「留魂録」を差し出したあと、沼崎はそのまま飄然と姿を消し、その後の彼の人生について手がかりは残されていない。しかし彼が伝えた「留魂録」は萩に送られ、現在は松陰神社の境内の資料館に展示してある。私も数年前に訪れ、「留魂録」と対面したが、感激ひとしおであった。
松陰が門下生に説いた「孟子」は「革命」の書だと言われている。政治は支配者の贅沢のためではなく、人民の幸せのために行われなければならないという主張が強く出ているからだ。実は「人民」という言葉も、「孟子」の中で初めて使われている。
「諸侯の宝は三。土地・人民・政事なり」 「民を貴しとなす。社稷(しゃしょく)これに次ぎ、君を軽しとなす」 「天下を得るに道あり。その民を得れば、ここに天下を得る」
松陰の薫陶を受けた門下生は30名ほどだが、多くは師のあとを追うように死んだ。古川薫さんの調べでは、8名が割腹自殺、捕らえられて斬首されたもの1名、獄死したもの1名、陣中で討ち死などしたものが5名で、半数の者が明治まで生き残ることはなかった。いずれも松蔭の志を継ぐことに生涯をささげた殉難者たちである。「留魂録」はこうした人々の「鎮魂の書」としても読むことができる。
(今日の一首)
死してなお人は生きたりさわやかな 草原を吹く風のごとくに
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