橋本裕の日記
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2007年03月22日(木) ちょっぴり美しい人生

 人を動かすには、道徳や正義はあまり役に立たない。いくら理路整然と正論を述べても、それで人が動くわけではない。頭でわかっていても、心は別の行動を指示する。「わかっちゃいるけど、やめられない」わけだ。

 我々は打算と欲望の支配する「煩悩の世界」で生きている。だから、相手を動かすには、まず相手が何を欲しているかを見なければならない。「説得」とは「得(利益)」を「説く」ことである。株を売りつけようと思えば、いかに株が利益を生むか説けばよい。人間は自分の益になる理屈であれば好んで耳を傾け、容易に納得する。ずさんな理屈でも、欲望の色眼鏡をかけて眺めれば完璧な理論に見える。

 私は中学生や高校生の頃、日曜日は父の田舎へ出かけて山仕事をした。これは重労働である。にもかかわらず、父についていったのは、父が怖かったからばかりではない。自分の植えた木が将来何万円かの商品価値を持つ。数万本植えれば、数十億円になる。50歳になったら、私は億万長者である。父からこんな話を聞いていたからだ。自分の利益になると思えばこそ重労働にも耐えた。

 もちろん、現実はそうはならなかった。1970年代の末には2万2千円した杉が、外材の輸入によってみるみる値崩れして、バブルの頃は8千円を割った。おまけに人件費が高騰して、林業は商売にならなくなった。現在は中国経済の興隆とともに外材が値上がりしている。しかしそれでも1万2千円ほどだから、まだまだ林業で生計を立てる水準にはない。

 結果的に父に騙されたわけだが、父をうらんではいない。父も悪意があって私たちを騙して山仕事に駆り出したわけでないからだ。父もまた甘い夢を追っていたのである。世が世であれば、父も65歳まで命を縮めてまで働かなくてもよかった。私も50歳で隠居できたはずである。

 山の財産があてにならなくなったので、私は教師として勤勉に生きることを余儀なくされた。このことによって、私はずいぶん人間的に成長することができた。「子孫のために美田を残さず」と言った西郷さんの言葉は、私の場合はあたっているのではないかと思う。

 欲得だけの人生はつまらない。しかし、人間は欲得を離れては生きられない。私たちにできることは、その「煩悩の世界」からほんのわずかだけ浮き上がることくらいだ。そのときちょっぴり自由になった気分を味わう。人生が少しだけ美しく見える。

 たとえば道元の「正法眼蔵」の中に、「愛語よく回天の力あることを学すべきなり」という言葉がある。良寛さんがこよなく愛した言葉でもある。

<愛語というは、衆生をみるに、まづ、慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。徳あるはほむべし。徳なきはあはれむべし。愛語よく回天の力あることを学すべきなり>

 良寛さんについてはこんな言い伝えがある。良寛さんの甥の馬之助が仕事をせずに遊んでばかりなので、両親は心配して良寛さんに意見をしてもらおうと思って、家に呼び寄せた。

 ところが良寛さんは何も言わない。何事もないまま五日が過ぎて、良寛さんは帰り支度を始めた。そのとき、良寛さんは馬之助にわらじを結んでくれるよう頼んだ。

 馬之助が良寛さんのわらじを結んでいると、うなじに冷たいものが落ちてきた。驚いて顔を上げると、良寛さんが両目に涙を一杯ためていた。馬之助は良寛さんのこの深い愛情に打たれて、それからは行動を慎むようになったという。

 愛語というのは何も言葉とは限らない。良寛のように、一言も語らなくても、愛情が伝われば、相手はそこに「愛の言葉」を読み取る。そしてこの愛情が人を変える。

(今日の一首)

 お彼岸に墓参りしたお土産の
 草もち食べる田舎の匂い


橋本裕 |MAILHomePage

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