橋本裕の日記
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2007年03月15日(木) 存在驚愕の世界

 昨日は「100円マックの会」で、鈴木啓造さんといろいろ語り合った。「100円マックの会」というのは、マクドナルドで100円のコーヒーを飲み、これをお代わりしながら、2時間ほどさまざまな人生問題について語り合う会である。こういう会を名古屋駅のマクドナルドで月2回ほど定期的に持つことにしている。

 昨日は俳句の話から、万葉集や源氏物語の話になり、これが哲学や宗教の話に発展した。私は哲学や宗教の根底にあるのは「色即是空、空即是色」の創造原理だと思っている。このことを中心に、西田幾多郎の「善の研究」や、私の好きなルソーのことなどにも脱線しながら、いろいろと楽しく語り合った。
 
 そして最後は、鈴木さんが最近読んで感銘を受けたという坂口安吾の「堕落論」の話になった。鈴木さんと「堕落論」との出会いが面白い。彼の主催する掲示板「日々の賀状」にそのいきさつが書いてあるので、ここに引用させていただこう。

ーーー風が届けた「堕落論」 ーーーー

 私は、よく家の近所を散歩する。昨日は、家から、2キロほど離れた庄内緑地公園へ出かけた。そこへ行くには庄内川を越してゆかねばならないが、その橋を渡る前、信号待ちをしていると、風に乗って、一枚の新聞の切り抜きが私の足元に舞って来た。

 私は、何かと思って、それを拾ってみたら、昨年十二月九日付けの中日新聞に掲載された、坂口安吾の「堕落論−5−」であった。中日新聞は、このところ漱石、鴎外などの昔の文豪の名作を、読みやすい文字に直して連載しているのは知っていたが、まさか、「堕落論」までが連載されているとは知らなかった。

 私は長年、この坂口安吾の評論に興味をもっていたが、この歳になるまで何故か読まずに、やり過ごしてきてしまったので、早速、それを公園のベンチに坐って読んでみた。

 掲載内容は以下の通り。感想はまた書けたら書こうと思う。ちなみに「堕落論」は「青空文庫」で全文読むことができてあり難い。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html

 ついでに言うと、12月9日は、私の結婚記念日であり、もっとも大きな影響を受けた小説家の夏目漱石の命日であり、もっとも大きな影響を受けたアーティストのジョンレノンの命日でもあるので、なんだか不思議な気分になった。

ーーーー坂口安吾「堕落論」よりーーーーー

 米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽(さわ)やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。

 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫(ほうまつ)のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。

 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音(あしおと)、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。

 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。

 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡(くつわ)を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪(ろうかい)陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸(きゅう)をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。

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「堕落論」は私の高校時代の愛読書だった。国語科の渡辺先生のお宅にお邪魔して、「何か面白い本はありませんか?」と訪ねたら、「これが面白いよ」と本棚なら取り出して貸して下さったのが「堕落論」だった。読んでみると、実に痛快だった。あらゆる既成観念を吹き飛ばしてくれる。

 そしてそのあとに残るのは、「生きるという事は実に唯一の不思議である」というとてつもなく深い生の認識である。これに驚愕したものだ。そしてこの「存在驚愕」こそ、「空即是色」ということではないかと現在の私は考えている。

(今日の一首)

 100円のコーヒー飲んで語り合う
 このひとときの色即是空


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