橋本裕の日記
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2007年03月02日(金) 子供に還るたのしみ

 私はもうすぐ57歳になる。あと数年で還暦を迎える。60歳になったら、思い切り子供に還ろうと思っている。世間のしがらみから解放されて、自由に子供のように遊ぶのである。これが私の夢だった。

 子供時代がなつかしいのは、子供の頃、だれしも「詩人」だったからではないか。つまり、世の中を利害や打算、欲望からだけではなく、もっと違った角度から眺めることができた。あらゆるものに興味を抱き、大人から見るとなんとも馬鹿げたことにも夢中になることができた。

 私は小学校の頃、「雲の上に乗りたい」と思っていた。雲は水蒸気の集まりだということは知っていた。だから、その瞬間、私は地上へ落下し、命を落とすだろう。それでも、そんな体験ができればいいなと思っていた。中学生の頃は、SF小説のせいで、これが月面に立ちたいという願望になった。

 月面が真空状態に近いことは知っていた。月面立った瞬間、私の目玉は飛び出し、体内の血液は沸騰し、体が風船のようにふくらんで破裂するに違いない。それでも、一瞬だけ月面の風景を見たいと思った。つまり自分の命と引き換えにしても、未知の世界を体験したいと思っていたわけだ。この不思議な感情を今でもはっきり覚えている。

 私たちは成長するについて、この無邪気な子供心を失う。世間的な打算や欲望に支配され、冒険心を失って、生活は保守的で単調になり、私たちの人生は色あせる。そして子供時代の贅沢な体験は、かすかな郷愁として私たちの精神に痕跡を残すだけになる。私たちは月面に立つという空想に取り付かれたり、すがすがしい風を肌に受けて興奮することもなくなる。

 もちろん例外はある。大人になっても童心を失わない良寛さんや、星野道夫さんのような人がそうだ。星野さんの文章を読んでいると、私はまだ若かったころのことを思い出す。雲に乗りたいと夢想し、科学空想小説に熱中し、気球による世界一周旅行を夢見ていたころだ。

<あなたの子供は、あなたの子供ではない。彼等は、人生そのものの息子であり、娘である。彼等はあなたを通してくるが、あなたからくるのではない。彼等はあなたとともにいるが、あなたに屈しない。あなたは彼等に愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない。何故なら、彼等の心は、あなたが訪ねてみることもできない、夢の中で訪ねてみることもできない、あしたの家にすんでいるからだ>

 これはカリール・ギブランという人の言葉である。星野さんの「長い旅の途上」の「はじめての冬」というエッセーに引用されている。星野さんは一歳になったばかりの息子の瞳をみて、この言葉を思い出したという。「あなたの子供は、あなたの子供ではない」という事実を、私たちはともすれば忘れがちになる。

 子供は過去からの贈り物であると同時に、未来からの贈り物である。そして「今」という時間に永遠の輝きを持ち込むことができる魔法の存在である。星野さんはこう書いている。

<大人になって、私たちは子どもの時代をとても懐かしく思い出す。それはあの頃夢中になったさまざまな遊び、今は、もう消えてしまった原っぱ、幼馴染……なのだろうか。きっとそれもあるかも知れない。が、おそらく一番懐かしいのは、あの頃無意識にもっていた時間の感覚ではないだろうか。過去も未来もない一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である>

<まだ幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしょうもなく魅きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ>

 私たちは、自分のなかに住んでいる「子供」を通して、この悠久な時間のなかに入っていくことができる。「子供」は人生のワンダーランドへのパスポートであり、入り口でもあるわけだ。そしてこの「子ども心」で世界を眺めると、そこには胸をわくわくさせるような不思議が、私たちの身の回りにまだまだ数限りなく残されているのに気づく。

(今日の一首)

 すこしずつ子どもに還るたのしみを
 日記に書いて今日もしあわせ


橋本裕 |MAILHomePage

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