橋本裕の日記
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2007年02月19日(月) |
主語を抹殺した男(7) |
1763年5月25日、伊勢松阪の旅館「新上屋」において、まだうら若い33歳の本居宣長と66歳の賀茂真淵は出会い、師弟の契りを結んだ。有名な「松阪の一夜」である。金谷さんは1941年12月の三上章と佐久間鼎の出会いをこれにたとえている。ここから「いよいよ日本語がはじまった」という。
<佐久間は、三上の文法研究者としての優れた能力を早くから見抜き、三上が学者に大成するように大いに腐心した。三上は三上で、生来の性向が一匹狼であるにもかかわらず、佐久間を自分の唯一の師として、出会いの日から最後まで、敬意と感謝をもって接した。それは両者の間に交わされた書簡にあきらかにしめされている>
三上の手紙をきっかけにして、二人の文通がはじまった。そして三上は翌1942年3月10日に、処女論文「語法研究への一提試」を一気に書き上げた。日本語文法の根底を変えるたいへんな内容の論文である。やがて佐久間から大阪で会おうという手紙が届く。5月のある日、二人は目印に胸に白いハンカチを入れて大阪駅で落ち合った。そして一緒に酒を飲み、夕食を食べた。このとき三上は39歳、佐久間は54歳である。
妹の茂子さんによると、三上はその夜たいへん機嫌よく帰ってきたという。佐久間を前にして、三上は自分の処女論文について熱っぽく語ったに違いない。そして佐久間は彼を激励したことであろう。奇縁というべきことに、佐久間の長男も「章」という名前だった。佐久間にとって三上章は何か身内のような存在に思えたのではないだろうか。
「語法研究への一提試」は雑誌「コトバ」の6月号に掲載された。三上はこれで国文法から「主語」という言葉はなくなるだろうと考えた。大変な自信家である。たしかにすばらしい論文だった。金谷さんの言葉を引いておこう。
<なかでもとくに、第一章「主語抹殺論」と第三章「ハとガの使い分け」は、海を越え、時を越えて、ますます評価が高まることはあっても、まずその逆となることはないだろう。日本語の文法に関心のある人にはぜひ読んでほしい。この論文こそは国語を日本語に脱皮させた1個の真珠である>
この独創的な論文について、文法学者の山口光は「三上のそれから30年におよぶ長い文法研究は既に学説の原点と大枠がこの小論で明らかに明示されている」という。三上自身、死の前年にこのことを確認して、数十年にわたって自分の基本的な考え方がかわらなかったことに驚いている。
42年6月のこの処女論文から、死の直前の1971年9月に発表された「主格の優位」まで、30年間に三上は雑誌論文を61本書いている。著作は「現代語法序説」から「文法小論集」まで8冊を出した。さらに死後、二冊が加わっている。その大半は大阪の県立高校で数学教師をしながら書き上げたものだ。その絶倫な精力にまず瞠目しないわけにはいかない。三上にこの学問上の偉業を成し遂げさせたのは佐久間鼎だった。
三上は佐久間が学長を勤める東洋大学で博士号を取得している。これも三上の将来を考えた佐久間の計らいである。佐久間は1970年、82歳でなくなった。そして三上もその翌年、師のあとを追うように68歳の生涯を終えた。二人の師弟関係は何と30年間も続いた。
佐久間や三上の努力はむくわれなかった。先覚者の悲哀というしかない。しかし彼らの業績は忘れ去られることはなかった。それどころか大きな結果を産みだしつつある。2003年にはこれまで国文学の総本山であった「国語学会」が「日本語学会」に改称された。これを受けて、日本の大学の「国語・国文学科」が続々と「日本語・日本文学科」へと変わりつつある。やがて、日本の大学で「現代語法序説」がテキストになり、中学や高校で三上文法が教えられる日がくるかも知れない。
(今日の一首)
雨上がり風に吹かれて逍遥す 遠くの山にわずかなる雪
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