橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2007年02月20日(火) 主語を抹殺した男(8)

 英語は主語を先頭におき、つぎに動詞をおく。そのあと補語や目的語を置く。文の構造はこの語順によって決り、「剛構造」になっている。しかし日本文はもっと柔らかなしくみになっている。動詞群はおおむね文末に置かれるが、その他の名詞群の語順は決まっていないからだ。

 列車がやがて2番ホームに入ります。
 やがて2番ホームに列車が入ります。

 このように主格や目的格など、文の構造は「が」「を」「に」などの「格助詞」を用いて表され、これで語格がはっきり決まるので、語順に対しては寛容なのである。状況に応じてもっとも効率的な形に変化できる柔軟さがある。この「柔構造」が日本文の利点である。英語はこの点で融通が利かない。

 このように、日本語と英語は文法構造が違っている。英語は語順で文の構造が決まる「語順文法」であるが、日本語は単語の語尾の形(接続する格助詞の種類)で構造が決まる「語形文法」である。にもかかわらず、この違いがはっきりと認識されることはなかった。そして構造の違う日本語に、英語式の「語順文法」をあてはめた。こうしてできあがったのが「国文法」である。これが明治以来、日本の学校で教えられてきた。

 三上章はこれに不満だった。日本語は「語形文法」であり、日本語の命は「てにをは」である。これをないがしろにする英文式の国文法は間違っている。この間違いを正すべく書いたのが、処女論文の「語法研究への一提試」だった。彼は以来30年間、このことを一筋に主張し続けた。

 こうした「国文法」の弱点はどこにあらわれるかというと、まずは「主語の問題」である。英文と違って、日本語は主語を省くことが多い。そしてときには「主格」をたくさんもち、主語を決めることができないこともある。これはつまり英語のような意味での主語が存在しないということである。三上章は「日本文に主語はいらない」と主張し、ダメ押しのようにこう書いている。

<私ガ顔ガ色ガ黒イ。家ハ窓ガアル。主格補語を幾つ取り得るかといふ標準から用言を三分すれば、3個が形容詞、2個が自動詞、1個が他動詞である>

 さらに重大な問題があった。それは国文法における「てにをは」の軽視である。三上章はこれを批判し、その主著「象は鼻がは長い」では、「日本語はガノニヲ変換の訓練」とまで言い切っている。ここで三上がとくに注目したのは、「ガとハの使い分け」の問題だった。

(1) 蛍光灯は明るい。
(2) 蛍光灯が明るい。

 日本人ならだれでも、この2つの文章のちがいが分かる。しかし、この意味の違いを言葉で論理的に説明しなさいといわれたら困るだろう。「直感的に違う」としか言いようがないからだ。しかし、学問はこれではこまる。こうした意味の違いを論理的に説明するのが使命だからだ。

大野晋さんは「日本語練習帳」のなかで、「『ハ』はすぐ上にあることを、他と区別して確定したこと(もの)として問題にする」という「根本的性格」があると書いている。簡単に言えば「主題化」するということだ。これに対して「が」は「現象文」をつくる働きがあるという。つまり(1)は蛍光灯について書かれた主題文であり、(2)は単なる事実(現象)を述べた文だというわけだ。

 以前の「国文法」は「は」は主語を表すとして済ましていた。だからこれを説明しようという姿勢は評価できる。「ハは主題をあらわす」というのはいまでは常識だが、「ガ」が現象をあらわすというのはなかなかのセンスである。しかしこうした問題については、すでに60年も前に三上が本質を捕まえて、もっと深く洞察している。「語法研究への一提試」から引用しよう。

<壁ハ白イと言えば壁を全体と見た判断だが、壁ガ白イと言えば、壁が部分に落ちて、背後の家についての品評となる。焦点の位置が違うのである。いずれにせよ「ガ」は部分的である。数学の等式でも、恒等式でなら「ハ等シイ」で、方程式なら「ガ等シイ」だ>

 「は」が「全体」を表し、「が」が部分を表すというのは、実におどろくべき卓見である。しかし、現在にたるまで、無数の論文が書かれながら、こうした本質的な観点から「は」と「が」の問題を論じた著作はほとんどない。その理由は何か、金谷武洋さんは「主語病」にたたられているからだという。

 もちろん、数少ない例外がないではない。金谷さんの著作もそうだが、他には町田健さんも「日本語のしくみがわかる本」(研究者)で、この問題に関しては本質に迫ることをしっかりと押さえながら書いている。その部分を引用してみよう。

<考えて見ますと、「ハ」の一番大切な働きは、ある語句が表すはずの事物の「全部」を指し示すということになります。「イヌは動物です」だったら、「イヌ」という名詞が表すことができるモノの全部を示しています>

 これはまさしく、三上説そのものである。町田さんは三上文法について一言も言及してしない。まったく独立に「は」の秘密にたどりついたのかもしれない。そうだとしたら、それはそれですばらしいことだ。それではこの立場に立って、さきほどの例文を解釈してみよう。

(1) 蛍光灯は明るい。
(2) 蛍光灯が明るい。

「蛍光光は明るい」だと、これは「すべての蛍光灯」についてあてはまることになる。「蛍光灯というものは明るい」と言い換えてもよい。これが「は」は「全体を表す」ということの意味だ。三上さんはこれを「恒等式」に例えている。恒等式は常に成り立つ式のことである。私たちはこれを「恒等文」というかわりに、「主題文」とよぶ。

「蛍光灯が明るい」というのは、その目の前にある特定の蛍光灯がただ明るいという現象をあらわしている。蛍光灯が全体を代表して、一般的に本性から明るいことを主張しているわけでもない。たまたま今は明るいだけである。したがってこれは「方程式」ににている。これを私たちは「現象文」と呼ぼう。

(3)泰男は酒を飲んでは暴れた。
(4)泰男は酒を飲んで暴れた。

 これは町田さんが「日本語のしくみがわかる本」でとりあげている例文である。「泰男は」と始まるので、これは「泰男」という人物について述べられた主題文である。それはともかくとして、(4)の文にはもう一つ「酒を飲んでは」と「は」が使われている。これによって、文の意味が全然違ってくる。

「酒を飲んでは暴れた」というのは、たまたま酒を飲んであばれたということではない。「酒を飲んで暴れる」ことが常態化・習慣化しているということだ。これに対して「酒を飲んで暴れた」では、泰男が酒乱かどうかははっきりしない。ただそういうことが、たまたまあったということがわかるだけである。これについて町田さんはこう書いている。

<とにかく「酒をのんでは」みたいな表現で大切なのは、「酒を飲んで」という語句(正確に言うと「節」ですね)が表す事柄の「全部」を指しているんだよ、ということです>

 これで「は」のもつ本質がよくわかる。大切なのはこうした「ハは全体をあらわす」という感覚である。日本人はだれでも「ハとガの使い分け」ができるということは、「は」と「が」の語感をそれなりに心得ているということだ。しかし、その語感をことばで論理的に説明することができる人はまれだ。大野さんのような国語学の大家にもできない。大野式に説明されても、私には理解できないし、中学生や高校生にもわからないだろう。

「ハとガの使い分け」は日本語のもっとも深い世界につながっている。じつは、私たちは「は」と「が」によって、世界を二つの方法で捉えている。ひとつは「もの」の世界で、もう一つは「こと」の世界である。

(5) そういう「もの」である。
(6) そういう「こと」である。

「もの」の世界とは恒久的な「本質世界」であり、「こと」の世界とはたまゆらに生成消滅する「現象世界」である。「主題文」と「現象文」の違いを突き詰めていけば、こうした深い世界にたどり着く。三上章はこうした日本語の本質を感覚的につかんでいた。それだけではなく、それを論理的に説明できるという稀な才能に恵まれていた。まさに言語学の天才である。(続く)


(今日の一首)

 ロンドンの娘のメールまちかねて
 何度も開くメールボックス

 娘は無事ロンドンついた。学校へも行き、先生にもあったようだ。届いたメールには、とても親切な先生だと書いてある。とにかく第一報が入ったのでほっとした。

 英文のメールだったので、私も英文で返事をだしておいた。文字化けするといけないからね。不慣れな英文でいちいち書くのはわずらわしいが、英文だと日本語ではかけないようなフランクな愛情表現ができそうな気がする。親馬鹿ぶりを発揮するには、英文の手紙はいいかもしれない。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加