橋本裕の日記
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2007年02月18日(日) |
主語を抹殺した男(6) |
三上章の大阪府布施の自宅からそう遠くないところに、契沖が住職として移り住み、多くの著作を残した「円珠庵」(天王寺区空晴町)がある。契沖は水戸光圀の依頼で「万葉集」を注釈した。これが有名な「万葉代匠記」である。この功績で契沖は水戸藩から毎年10両を貰っていた。
1801年の春、本居宣長が円珠庵を訪れている。すでに100年前の1701年に契沖は亡くなっている。宣長は半年後に死を迎えているから、自らの死を意識して、契沖のゆかりの地を訪れることを思い立ったのだろう。時代は下り、三上章がここを訪れたのは、1941年の夏である。宣長の訪問から、さらに140年あまりが経っていた。
契沖や本居宣長が始めたのは、日本語についての本格的な学問である。古代の文献を批判的に眺め、偏見や固定観念からから自由になるためには、日本文化に圧倒的な影響力のある漢心を排する必要がある。とらわれない目で日本と日本語の本質を見つめようとした二人の心に、三上章の心が寄り添った。すでに三上の心には期するものがあった。ある書物との衝撃的な出会いを果たしていたからだ。
太平洋の戦端がひらかれたこの年、時枝誠記が「国語学原論」を出版している。しかし、三上章に衝撃を与えたのはこの本ではなかった。同じ年の3月に育英書院から出版された佐久間鼎の「日本語の特質」だった。佐久間は東京大学哲学科を卒業し、博士号を取得した後、ドイツ、フランスに2年間留学している。研究したのはゲシュタルト心理学で、帰国後、九州大学教授に赴任して心理学を教えていた。佐久間はこうした独特の経歴をもちながら、日本語文法にも深い関心をもち、雑誌「コトバ」を主宰していた。
佐久間のゲシュタルト(場)心理学を取り入れた「コソアド研究」は秀逸だった。活用形をローマ字で表記することで、自動詞と他動詞の特質を浮かび上がらせる形態素分析の手法も斬新だった。日本語を世界の中の「言語」のひとつとして客観的に捉えようとする姿勢も際立っていた。金谷さんはこう書いている。
<こういう点はやはり外国で生活しながら外国語を習得した学者の発想であり、早い時期に彼が「日本語派」となったのも頷ける。つまりは、日本語を日本の中でしか捉えないのが。「国語派」であり、国境の外から多くの言語の中の一つとして捉えると自然に「日本語派」になるのだと言えよう>
1941年に「国語学原論」を書いた時枝誠記は2年後に東京帝国大学教授になっている。彼を教授に推したのは前任者の橋本進吉だった。橋本には「国語学概念」という著作があり、「国語派」の総元締めである。戦後、国史は日本史になった。しかし、「国語」は「日本語」にならなかった。80年前の橋本文法がまだ現在日本の学校で教えられている。
本居宣長に私淑した山田孝雄は、大槻文彦に師事したが傍系であり、「日本文法」という言葉を使っている。佐久間や三上章は評価したのは橋本文法ではなく山田文法であった。ちなみに山田孝雄は東北大学で三上義夫の同僚だった。その縁もあり、三上章は戦後になって山田に就職依頼の手紙を出している。しかし、これについてはまた後に触れよう。
大槻文彦ーーー橋本進吉ーー時枝誠記ーー大野晋など | ー山田孝雄 契沖ーー本居宣長ーー 佐久間鼎ーー三上章
金谷さんが三上章の「象は鼻が長い」に衝撃を受けたように、三上は佐久間鼎の「日本語の特質」に出会って衝撃を受けた。すでに大陸時代の5年間を通して、三上は日本語を他の言語と比較して論理的にとらえようとする性向が生まれていた。「日本語の特質」はまさに、三上にこの観点の重要性を再認識させた。
この本を読んで感激した三上は、日本語研究に一生をかけようと考えた。この決意を胸に秘めての、円珠庵への参詣だったわけだ。そしてその年の暮れ、真珠湾攻撃を翌日に控えた12月7日、三上は佐久間鼎に入門を請う手紙を送った。
(今日の一首)
朝餉どきテレビに映る雪景色 なつかしきかなふるさとの冬
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