橋本裕の日記
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2007年02月17日(土) 主語を抹殺した男(5)

 1935年に朝鮮から帰った三上は32歳になっていた。広島修道中学、和歌山粉河中学で教鞭をとったあと、39年の暮れに大阪府立八尾中学校に赴任する。戦後は学制改革で新設高校になったが、彼はこの学校でそののち22年間の教師生活を送ることになる。ここにようやく安住の地を見つけたわけだ。

  八尾中学に就職して半年後、三上は「加茂一政」というペンネームで一冊の書物を世に送り出した。本の題名は「技芸は難く」である。彼はこう書き出している。

<好き嫌いで批評してはいけない、といふ套句には重大な脱字がある。批評し『なく』ては、と二字点睛しなくてはならぬ>

 開戦前夜の重苦しい時代である。純粋な知的衝動の赴くままに、洋の東西を越えて、哲学、美術、音楽、文学とさまざまなジャンルを自由に渉猟した三上の随筆は異色だった。この出版を機縁に英文学者の吉田精一から、「日本にもこんなことを書く人があるかと思うとうれしくなります」との手紙をもらった。

 そればかりでなく、吉田精一は自分が主催する雑誌「批評」に記事を連載してくれるように依頼してきた。翌年、三上の「ヂオスクロイ」という一篇が12月号に掲載された。しかし、ついに続編は出なかった。連載は一方的に打ち切られた。芸術評論家としての未来を夢見ていた三上にとってこれは大きな痛手だった。これについて、妹の茂子がこう語っている。金谷さんの本から孫引きする。

<初めはね、文法ではなくて文学、絵画、音楽、そんなのを書きたかったんです。芸術評論ですよね。絵画、芸術は好きでした。なかでも好きなのはコクトーでした。それからもう一人、ポール・ヴァレリーが好きでしたね。コクトーの方は好き、ポール・ヴァレリーの方は敬愛の念、尊敬の念をもっていましたね。

 ずいぶん、書いたものもあったんです。ただね、第二次東亜戦争の時代でしょう。紙がなくなったんです。統制されましたからね、紙をもらってきれいに印刷するということは不可能でした。そうしますとカラー印刷の絵画についての評論とかはもう書けない訳ですよ>

 妹の茂子さんは、やがて三上と生活を共にするようになった。三上は独身だったが、茂子さんも生涯を独身で通している。三上の文法家としての業績を陰で支えたのは茂子さんだった。最晩年、三上はハーバード大学に招聘され、茂子さんを残して出発する。しかし、三上は精神異常をきたし、わずか3週間でアメリカから送り返されてしまう。三上章にとって、茂子さんは特別な存在だった。金谷さんは三上章の「時代は難く」のペンネーム「加茂一政」のなかに、こんな秘密を見つけている。

<「加茂一政」の「茂」は「茂子」なのだ。なぜこんなに簡単なことに気づかなかったのだろう。「茂」が「茂子」なら「加」がすぐに解ける。自分の暮らしに「茂子を加え」るのだ。三上はそう決めて筆名の苗字を「加茂」にしたに違いない。つづいて「政」の意味だが、「家政/財政」でみてもわかるように、これは「おさめる/おさまる」だろう。最後に残ったのは「一」。これは素直に「一つ」と読む。つまり「一政」は「一つにおさまる」と読めばよい。夫と別れた母親を引き取るのは、長男として当然だ。しかしそこに妹まで加えるとしたら、それはまさに「一つにおさまる」と言える。

 解読は一気に完了した。「加茂一政」は「茂子を加えて一つにおさまる」と読めたのである。そしてこの筆名が言霊でもあったかのように、その願いを三上はその二年後に実現した。いずれにしても、このペンネームは自分に対する生活革命の決意、あるいは「自分と一緒に住まないか」という妹への誘いであったろう>

 金谷さんの暗号解読者としての腕前は上々である。三上章はペンネームにこんな企みをしかけ、それを実行に移した。そしてこのことを秘した。まさか、半世紀以上過ぎて、このひそやかなはかりごとが、白日の下に暴かれるとは思ってもいなかっただろう。「参ったな。解かれたか」と、天国で苦笑しているに違いない。

 三上の「文芸批評家」としての夢は果たされなかった。茂子さんが語っているように、まさに「技芸は難く」あった。そして、このことが三上章を日本語文法家の道へと押しやる一助になった。なぜなら、このあとすぐに、三上は自分の人生を変える大きな一歩を踏み出しているからだ。

(今日の一首)

 ロンドンへ旅立つ娘われに似て
 どこか抜けてる方向音痴
 
 次女は昨夜、夜行バスで成田に向かった。今日、午前中に日本を飛び立つ。私に似て、かなりの方向音痴である。ロンドンへ行くつもりで、グアムへ行ったりしないだろうなと、父親は心配である。


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