橋本裕の日記
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2007年02月16日(金) |
主語を抹殺した男(4) |
1923(大正12)年、9月1日、マグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲った。死者行方不明14万2800名という未曾有の大災害である。この翌年、三上章は東京大学の建築学科を受験して合格している。建築学科に進学することを勧めたのは大叔父の三上義夫だった。
数学者の大叔父は「この世相だ。数学では食えまいが、建築なら食えるだろう」と語っていたという。章の妹の茂子さんによると、これは「指図」だったようだ。尊敬している大叔父の言葉に、さすがに三上章も逆らえなかったのだろうか。それでも、試験前日になって、「わし、やめる」と言い出してまわりをあわてさせた。広島の友人たちが何とか説得して試験場に引っ張ってきたらしい。実のところ、三上家の財政状態もかなり悪化していた。
日本経済は不況だった。しかし、大震災で建設業は需要が見込まれ、東大の建築学部は例年にない高倍率だった。直前まで迷っていた三上章はそれでも合格した。東大での4年間、三高から京大に進んだ友人たちとさかんに文通した。文学(ドストエフスキーとツルゲーネフ)、絵画(ゴッホとアンリー・ルソー)、音楽(ドビッシー)の話題が多かったという。また啄木が好きで、この孤独な詩人の日記を耽読した。
1927(昭和2)年3月に東大を卒業した。銀行がぞくぞく休業するという金融恐慌のまっただなかで、三上章は台湾総督府に技官として就職する。やはり東大建築学科卒の威光は大きかった。これで三上家は安泰かと思われた。大叔父の三上義夫も胸をなでおろしたことだろう。
ところが、三上章はこの恵まれた職を2年で投げ出してしまう。知的な刺激に乏しく、官吏暮らしも性分に合わなかった。辞職して1929年5月に広島に戻った27歳の三上章は、また自由な読書生活に復帰して、「批評は何処へ行く」という小林秀雄ばりの文学批評の論文を書きあげた。これを雑誌「思想」に投稿し、12月号に掲載された。処女作は文芸批評だった。
このころ三上章は文筆業を夢見ていたのかもしれない。しかし、不況のさなか、世の中は甘くない。とりあえず職位を見つけ、食べる算段をしなければならない。そこで、今度は朝鮮半島にわたり、この地で5年間にわたり中学校の数学教師を勤めた。この朝鮮北部での数年間の教師生活は三上章にとって快適なものだった。
彼にとってありがたかったことは、この新天地で誰にも干渉されない「自由な時間」が持てたことだった。給料や世間体を気にしない三上は、学問や読書に耽り、教え子たちとの豊かな人間関係を楽しんだ。スポーツ好きだった三上は、休日には乗馬、テニス、水泳、スケートを謳歌した。しなかったのは狩猟だという。三上の周囲には朝鮮人のほかに、ロシア人、満州人が入り混じって暮らしていた。こうした外地での生活は、三上章の内面にも大きな影響を与えた。金谷さんに語ってもらおう。
<当時の朝鮮のコスモポリタンな環境は、文化的言語的に台湾をはるかに凌駕していた。ここでは日本語を他の言語との対比において考えることが自然であり、未来の文法研究家三上章の才能を醗酵させるには、理想的な土壌であったに違いない。その意味で、三上にとって、自分の母語はこの外地において「国語」から「日本語」へと変容を遂げることになる>
<数学、音楽、そして晩年にはいよいよ日本語文法と、教える内容に変化はあったが、これ以降、三上は亡くなるまで「一介の教師」でありつづける。そして「一介の教師」であるがゆえに、才知湧くがごとき、足を地に着けた一人の「街の語学者」を日本は得たのである>
しかし、三上の朝鮮半島での楽しい教師生活にも戦争の影がしだいに忍び寄ってきた。三上が朝鮮半島に渡った翌年の1931年には満州事変が勃発している。翌年32年には満州国が誕生した。33年には国際連盟脱退。この年、京大で滝川事件がおこった。三上が赴任した羅南は朝鮮半島の北の端にある。日本軍国主義の支配は三上の身辺にも及んできた。
大陸的な北朝鮮での生活は気に入っていたが、三上は中学時代の恩師の勧めで、南朝鮮の学校に転勤する。しかし、新しい学校は三上にあわなかった。三上は後年この頃のことを回想して、「朝鮮の人々は気の毒な人たちじゃ。植民政策の線での教育は、いけんじゃなあ」と繰り返していたという。孤立して息苦しくなった三上は短期間でこの学校を辞職した。こうして三上は5年間の朝鮮暮らしに終止符を打ち、広島に帰ってきた。(続く)
(今日の一首)
雨風に散歩はよして湯につかる あたたかきかな朝風呂もよし
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