橋本裕の日記
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2007年02月14日(水) |
主語を抹殺した男(2) |
三上章は1903年1月23日、広島県高田郡甲立村に生まれた。三上家は戦国武士の血筋を引く名家で、庄屋をしていた家柄だった。章が生まれたころも造り酒屋をしていて、家業は順調だった。三上はその家に長男として生まれた。大叔父に和算研究家として世界的に有名な三上義夫(1875〜1950)がいる。
和算に興味があった私は、何回か東京の国会図書館に通ったことがある。まだ、世の中がおおらかな頃で、数学科の出張旅費を使い、何年に一回は東京へ行って、国会図書館をおとづれるのが私の愉しみだった。和算関係の資料をむさぼるように読み、学校の紀要に論文を書いたりしたものだ。(10年ほど前に書いたこの論文、探してみたが見当たらない)
和算に興味があった関係で、三上義夫の「文化史より見たる日本の数学」(岩波文庫)は読んでいた。もっとも、三上義夫はこの本を書いたことで、学士院会員の地位を追われた。反骨の学者だったこの28歳年上の大叔父を、三上章は尊敬していたようだ。
三上章は子供の頃は無邪気で明るく、学校では皆から愛されていたという。三人の弟や友達と新しいゲームを考え出すのが趣味の利発な少年だったらしい。広島の中学校ではサッカーの選手として活躍した。しかし、一番得意だったのは数学だったという。このころから反骨精神も旺盛だった。こんなエピソードが残っている。
軍事教練の時間には銃を磨かず、朝礼や集団行動の規律を馬鹿にして、操行は最悪だった。父親は学校に呼び出されて担任から小言をいわれ続けたらしい。そんなわけで通信簿の成績は34番中31番のときもあったという。また数学の考査で、あまりに簡単すぎて解答する気がしないと、用紙に○を書いて早々と退出し、図書館に行って読書に耽ったという。しかし、こんなに無茶な行いをしたにも関わらず、数学の教師は三上の才能を認めて、可愛がってくれた。
三上は山口高等学校に首席で合格した。とくに数学の成績がずば抜けていた。当時の高校入試は全国統一である。その試験で彼の成績は数学に関して全国でトップクラスだったらしい。当時の「中学生」という雑誌に、「一高の某と、山口高の三上章が抜群の成績であった」という一文が載ったという。そんなわけで、入学式に彼が新入生を代表して宣誓することになった。
宣誓の文章は、学校側が用意する。それをただ読めばいいだけだが、ここでも三上はあまのじゃく精神を発揮した。その文章を手にしながら、彼は文章を変えて話したようだ。妹の茂子さんの談話を、金谷さんの本から孫引きしておこう。
<兄は、ありきたりのことが嫌いなので、山口高校に首席で入学しました時、入学式に、学校側から渡された宣誓文を、前もって直すこともなく、式場でその文章を変えながら読んでいったことは、本人少々得意のようでした>
なお、このスピーチの抜粋を、インターネットで実際に聞くことができる。また、三上が自宅のピアノで弾いたドビッシーの「亜麻色の乙女」も聴ける。たまたま友人のひとりが30年以上前に録音したのだという。ちなみに、三上はわずか3ヶ月しかピアノを習っていない。これもすごい才能である。金谷さんは執筆をしながら、毎日のように三上のピアノに耳を傾けていたのだという。
http://homepage3.nifty.com/kurosio/mikami/mikami.html
しかし、三上は首席で合格した山口高校を数ヶ月で退学してしまった。金谷さんの見立ては「授業が始まって周りの級友たちを見渡したときに、この様子では知的成長ができないと思ったのではないだろうか」ということだ。級友にも教師にも失望したというのが本当のところかもしれない。それにしても、この決断の早さは見事である。(続く)
(今日の一首)
母の声はかなく聴こゆ電話口 たしかになりてわれは安堵す
福井に電話して、母のその後の病状などを聞いた。最初、声が弱弱しいので心配したが、次第に声が明るく、いつものように活気を帯びてきた。「風邪がはやっているから、気をつけるんだよ」と言って、電話を切った。
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